小 熊 座 2008年10月 俳句時評
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     2008年10月  無名の彼方を行く前に

                         
渡辺誠一郎


     「ジェンダーはいまやそれだけですべてを分析すること
    はできないが、それ抜きで何ものをも分析することができ

    ないような変数のひとつとなった」(現代思想05・9月号)と
    は社会学者で、ジェンダーについての論客の一人である上

    野千鶴子の言葉だが、改正均等法や男女共同参画法が施行
    された現在にあっては、この言葉が成立する状況が生まれ

    つつあるということだけは確かなようだ。ただ上野はこれ
    を可能にしたのは、介護保険法によって福祉が、「恩恵」か

    ら「権利」へ、「措置」から「契約」に変ることで「無償労
    働」なる概念が女性「特有」の家事労働の分野まで一気に

    及んだことで、結果として女性の現実を大きく変える効果
    があったと指摘しているのである。

     しかしこの度刊行された、宇多喜代子の 『女性俳句の光
    と影』 (NHK出版)を手に取ると、上野の言う「変数」の

    意味するところのものが、女性俳句にあっては、まさに
    「光と影」が複雑に絡み合ったさまざまな軌跡の結果とし
    て現在があることがあらためて考えさせられる。

    宇多はここで、「杉田久女の登場と終焉」 に始まり、「男
    社会と女性俳句〜職業婦人″と台所俳句″」、「こころの

    風景を詠んだ女性俳人」、「新興俳句と戦時下の俳句」、「戦
    後俳句と女性俳人」、「病の床と女性俳句」、「生の苦難・恋

    と女性俳人」、「女性俳句に見る老い″」、「女性俳句のゆく
    え」「いとしき女性俳句」と、興味あるテーマをエポックメー

    キング的に設定して、明治から平成までの女性俳句の動き
    を手際よく取り上げている。

     特にこのなかでは、新興俳句運動において女性の参加が
    少なかったが、「新興俳句が開拓し、実践してきた言語観や

    方法は、現代俳壇の女性達の自由自在な作句方法に多大な
    影響を及ぼしています。」と、現在の女性俳句の表現法との
    接点に言及した個所に目がとまった。

    また「女性俳句のゆくへ」の章では、「俳句のゆくへ」や
    「国語のゆくへ」と重ね合わせている。「女性俳句」の呼称

    が、やがてはなくなってしまうだろうと予測しているので
    あるが、杉田久女、竹下しつ女、藤木清子、鈴木しづ子、

    石橋秀野らの名をあげ、「これらの女性たちが残したすぐれ
    た俳句は「女性俳句」として、読み継がれてほしいと願う
    ばかりです。」と結んでいるのが胸を打った。

     このように字多は、戦争や病気、そして性差別などを抱
    えた、まさに激動の時代にあって、俳句という小さな器の

    中で己の存在をもがくように表現しょうとした、さまざま
    な女性たちを愛しく思い、強い共感を寄せながら語ってい

    る。宇多の俳句史のなかで先行した女性への敬愛とオマー
    ジュの書である。

     私も当然のように、やがて女性俳句なる言葉が、歴史の
    彼方や作品の背後に遠退いて行くのではないかなどと思っ

    ていたのだが、この宇多の言葉には、考えさせられた。
    俳句一つ一つは、それぞれの時代に刻まれた生の確かな

    軌跡として単に作品のみとしてあるわけではない。作品は
    表現した作者としての存在を抜きがたい切実な姿とともに

    あることを忘れてはならないことを教えている。短詩型の
    俳句にあっては、(読み人知らず)の美しき無名の世界が最

    後に行き着くところと思うのはまだまだ青い幻想かもしれ
    ない。

     「男性主導の時代に、必死になって俳句と取り組んできた
    黎明期の女性たちの履歴を播くとき、男性も女性となおじ

    だという(括り)の中に彼女たちを入れるのはかわいそう
    だという気持ちになります。」この宇多の言葉が胸深く響い

    てくる。我慢や我執から表現の世界に身を投じ、やがて無
    名の彼方へと作品を差し出していくことはある種の美しい

    妄想に過ぎないが、その世界自体は確かに詰まらない(無
    臭の世界)であるともいえるだろう。詠み人知れずといえ

    ども、詠うものの姿かたちがみえるほうが面白いに決まっ
    ている。そのように考えると、俳句史のなかに「女性俳句」

    として括ることは、重要な歴史的な事実として捉えること
    以上の意味が見えてくる。

     折りLも江戸期から現代までの女性俳人百五十余名の作
    品鑑賞を収録した『鑑賞 女性俳句の世界』(角川学芸出版)

    が刊行された。これが女性を冠にした俳句シリーズの最後
    の〈総括〉になるのかも知れないと思ってみたが、もう少

    し「女性俳句」の世界をあらためてきっちり受け止めてみ
    たい気になる。

     しかし、このところ上梓をみた句集『子の翼』(ふらんす
    堂)で、仙田洋子が(みどりごのからだけむたし藤の花)、

    (山笑ふ吾子に求愛されており)と吾子賛歌を明るく詠い、
    西村和子が『俳句のすすめ・若き母たちへ』(角川学芸出

    版)のなかで、若き女性たちに子育てと一緒に軽やかに俳
    句を書くことを推奨するのを目の当たりにすると、もはや

    かつての女性俳句の延長とは明らかに違う位相に立ってい
    ると思わざるを得ない。それは日常性のなかにはじめて俳
    句がゆっくりと自然に舞い降りてきたことを意味するし、

     女性俳句という固有名詞から女性の冠がはずれはじめたよ
    うに思えてくる。女性が自らの表現の重要な一つの場とし

    て、俳句に身を置き始めた、揺るぎない自負のうえに立っ
    た地点が現在の今なのだと思う。

    飯島晴子が以前、「女流の抱負」と題した文章を求められ
    たとき、このテーマで書くことのもどかしさを語りながら、

    女流としての「肩書き」を外して、自信を秘めながらそっ
    とつぶやくように次のように述べたのが今も印象に残って

    いる。「女でもない、男でもない、一人の俳句作りの遥かな
    思いの様なものがある。…形にして云い出されたことは今

    まで一度もなかったことを、形にしてみたい。…俳句とい
    う釣針でなければ上げることの出来ないものが、必ずある
    という強い畏れを感じる」。 (「俳句研究」昭和44年4月号)



  
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