2010/6 bR01 小熊座の好句 高野ムツオ
白魚の千の眼に風千尋 畠 淑子
この句は、東京土の会で作られたものである。土の会では、当日に席題を一句出
す。いわゆる題詠だが、これはもともとは短歌の古典的な詠法。漢詩の詩題から胚
胎してきた方法であるらしい。万葉集にも梅や七夕の歌が題詠によって作られてい
る。それが平安時代に屏風歌や歌合わせ、歌会の隆盛に伴って一般化したのであ
る。題詠は俳諧の時代になって一層盛んになった。一座への挨拶として、折り柄の
景物を詠むことが必須とされたからである。それは季題や、それを表す季語が発達
し多様化していくことにつながった。しかし、題詠といっても、江戸時代でも、必ずしも
季題に限ったのではなかったらしい。蕪村の句会では、通常兼題と探題(席題)の二
本立てで、探題には「木樵、山伏」などの職業や「火吹竹、臼」などの道具類を題とし
たらしい。藤田真一の「〈物〉を詠むこと」という文章で知った。藤田は、これは「〈物〉を
詠むことの訓練だった」と述べている。俳句は、俳句と呼ばれる以前からして、物をい
かに表現するかということを大きな要諦としていたのである。
土の会の当日の題は「尋」。これは物ではない。だから物を表現する契機として、こ
の言葉が生かされることが必須であった。その「物」はどこに存在するか。それは実
作者の記憶の中である。記憶の底に眠る事象が、「尋」という言葉を契機として十七
音のリズムに呼び出され、表現として立ちあがって来たとき、そして、それが作者の
思いと共鳴しあい、新しい言葉の関係として生まれ変わったとき、一句は成立する。
題詠が単なる虚の遊びに陥ることなく、実の感動の表現として可能となるのは、こうし
た過程が、作者の内部で繰り広げられたときであろう。
畠淑子がどこで、このような白魚の眼と風の出会いを知ったか、それを承知する必
要はない。いや厳密にいえば、おそらく、それは、この句ができた瞬間であろう。この
句には、はかない命そのものである白魚と悠久の風との出会いが、一回性そのもの
として言い止められている。
ただし、一言付け加えておけば、そうした出会いが可能になったのは偶然ではない
ということである。日常における「物」への詩的執着と、表現の修練があってこそなの
だ。
春潮に一尋の翼得て帰る 須崎 敏之
も同じ折の作品。
翼痕の痛む卯の花腐しかな 大和田節子
「翼痕」とは耳慣れない言葉だ。辞書にもない。どうやら短歌で使われている言葉ら
しい。大塚寅彦の歌集『刺青天使』の題名になった歌にもある。どこかで「聖痕」につ
ながるニュアンスも伴う。それに、「肩胛骨は翼のなごり」という題の童話も合わせ思
えば、虚から生まれた言葉だが、詩の言葉として市民権を与えてもいいのかもしれな
い。
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