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 小熊座・月刊 
  


   2010 VOL.26  NO.302   俳句時評



          季節との距離感        佐藤成之

  急激に暑くなったと思えば、数日後には春先の寒さに戻ったりと、変則的な気候だった

 五月。地球温暖化と言わ
れて久しくなるが、各地で都市化の進む現在、私たちと季節の

 距離感はますます遠ざかるばかりだ。そんなことをぼんやり考えているとき 『今、俳人は

 何を書こうとしている
のか』という邑書林ブックレットを入手した。これは昨年末開催された

 「新撰
21竟宴」のシンポジウムの全発言記録。そこで注目したのが、二部における、自然

 とその実感に関
するパネラーの発言だった。特にここに抜粋はしないが、私自身の俳句

 生活を考えるきっかけとなったのである。

  一般的な会社員であれば、朝家を出て、夜帰るのが普通である。だから、平日、自然に

 触れる時間といえば往復の通勤時間しかない。追われるような日常ではどこかで寄り道し

 たり、立ち止まる余裕などないのだ。窓を締め切り空調の効いたオフィスでは、季節の風

 を感じることもない。

  雨が降ったのか止んだのかも分からない。人工の象徴であるビルは、容易に自然と人

 間を隔離しては関係を遮断する。
しかし、人間は自然に対して正直なのである。天気がよ

 け
れば、人の心は明るくなる。雨の日の商談はうまくいかないことが多い。日照時間が短

 くなれば、人は鬱状態に陥り
やすい。自然の力は大きい、それは俳句をするとかしない

 かの問題以前に。そして、ある日、改めてその存在に気
付くときが来るのだ。未来の時間

 より過去の時間が長く
なったとき、はじめて後ろを振り返る人もいるだろう。前だけをがむ

 しゃらに見つめていた新人類もすでに人生を折
り返した。自分の命の重さを考えるように

 アスファルト
の脇の小さな花の健気さや目の前の裸木のたくましさを実感するのだ。自然

 に対峙する俳句を志すのであれば、それ
らを早くから意識する必要があるはずだったが

 残念なが
ら見過ごしていたのである。もちろん、作品を鑑賞するために季語として理解は

 していたが。机上派を名乗り格好を
つけては視野を狭めていただけなのだろう。健康その

 もの
である若さを失ってゆくことによって皮肉にもようやく見えてくるものがあるのである。

    カキフライなんこ食べても広い空      二組 一朗

  この句は、第三回佐藤鬼房顕彰全国俳句大会で私がジュニアの部特選に選んだもの。

 もちろんカキフライが季語だ
が、それを使った作品を今まで目にしたことがなかった。

 川俳句大歳時記を開いても「牡蠣」の項目の末尾に「牡
蠣フライ」と記してはあるが、例句

 の掲載はない。恐らく、
牡蠣といえば昔は酢牡蠣だろうから、比較的最近認められたもの

 といえよう。食をはじめとした生活の変化によって
季語が広がった例である。季語に新た

 な意味を与えること
は、俳人の役割のひとつであるが、こうしたものを発見することも嬉し

 い。掲句を目にしたとき、松島の芭蕉祭の日の
光景が浮かんだ。二階のテーブルに並べ

 られた皿、窓から
見える海岸、それに続く空。季語が読者の記憶のスイッチを入れてくれ

 たのである。現代の子どもにはなんでもない
季語の詠み込みも大人には新鮮そのものだ

 った。そして、
少年らしいのびのびとした表現と、「なんこ食べても広い」という真理の把握

 に驚き、一席に推すことになるのである。

  ところで、季語といえば俳句特有のものであるが、私たちの暮らしには常に季節のもの

 があふれている。四季に恵
まれた日本はその宝庫なのである。年中行事をはじめ、お

 おりの植物や食べ物など、歳時記を広げればありとあら
ゆるものが、季語と呼ばれること

 を理解するだろう。しか
し、この定型詩と関わりを持たぬ普通の人々は、いちいちそれを

 季語として意識することはない。先のシンポジウム
の中で話が出たように俳界という共同

 体の言語、共感を深
めるための言葉なのである。だが、その一語の存在により作品は

 さらに具体的に情感を帯びたものになる。言葉の背
負ってきた歴史が力となりその世界

 を豊かにするのである。

  一方、生活習慣や風習など時代の変化によって消えていくものもある。「浮いて来い」と

 いっても私は作品の中で
知るのみでリアルには知らない。しかし、先達の一句を読むには

 不可欠なのである。それを知ることは言葉の意味だ
けでなく、その背景も含めて理解する

 ことだ。いうなれば
俳句をする人間の嗜みであり、喜びでもある。また「亀鳴く」という季語

 は藤原為家の題詠歌によるといわれるが、
俳句の外で聞くことはまったくない。これこそ

 まさに俳人
のみの楽しみといえよう。が、季語として育ったそれを保護していくのも俳人し

 かいないのである。さらに、埋もれ
つつある地域の伝統文化を掘り起こすこともその仕事

 とい
えよう。しかし、それさえ優れた作品の発表をもってしかできないのである。わずか十

 七文字であるが、自分の生き
る風土や伝統をすこしでも伝承できればという願いがある。

  これらを考えているうち、『俳句』六月号に「若手俳人の季語意識」という座談会を見つ

 けた。その中に「できあ
がった自分の句を見てみると、一句の中で季語が一つの重心に

 なっている。作る過程ではそう思わなくても結果とし
てそうなっているんです。季語が入る

 ことで、自分の句は
俳句として読み得るものになっている、これが、季語に寄りかかって

 いるということです。そう気づいた一方で、自
分のある種の句は、季語を季語だと思わなく

 ても読み得る
ものがあることに気づいたのです。」という鴇田智哉氏の発言がある。これ

 らは俳句形式の本質を述べているように
思う。それは一句の中で季語が動かないという

 こと、季語
の恩寵が一句を立たせたということ、そして自然な季語の斡旋の成功を示す。

 季語に親しみを持ち頼りにすることは
決して邪悪なことではない。なぜなら、季語とは人と

 人、
言葉と言葉、時間と時間を結び付ける純粋な媒介であり、俳人たちの共有物として自

 由な使用が認められた、生きて
いる財産だからである。



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