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 小熊座・月刊 
  


   2011 VOL.27  NO.319   俳句時評



          碧梧桐俳句集

                             大場 鬼奴多

  今秋の岩波文庫の最新刊、栗田靖編『碧梧桐俳句集』は碧梧桐の習作時代から晩年に

 至るまでの作品の中から二千
句を精選して、多種多様に変化したその俳風の全貌を見る

 ことができて興味深い。

  云うまでもなく、碧梧桐にとって子規は師であり、恩人である。虚子も加えて、ノボさん、ヘ

 ーさん、キヨさんと
呼び合う、親身な付き合いでもあった。

     面白う聞けば蜩夕日かな

  明治二十四年、碧梧桐十九歳、本集一句目に置かれた句。六歳年長の子規は「諸君取

 リ玉ワズ余独リ之ヲ賞ス蓋シ蕉
翁ノ余韻アレバナリ」と褒めた、とある。

  碧梧桐は、これまでの評価が極端に肯定的であったり、否定的であったりする極めて特

 異な存在のひとりと云え
る。

  そして、終生のライバル虚子が俳句作家として自分の分限を頑固に守り、特殊な文芸た

 る俳句固有の方法論を追求
し完成させたのに対して、碧梧桐は宿命的な時代の促しに

 しく動かされ、その理論的追求は俳句の方法論の限界を
越え、ついには破綻したと云える

 のかもしれない。

     赤い椿白い椿と落ちにけり

     白足袋にいと薄き紺のゆかりかな

     乳あらはに女房の単衣襟浅き

  明治二十九〜三十年、子規はこれらの句に対して「印象明瞭」と評し、写生論のひとつの

 実りとして高く評価した。
しかし、このことはそれが印象明瞭であるからというよりも、印象

 明瞭に明治の新調の特質のひとつとしての新たな
る意味あいを与えたからに相違ない。

 俳句の持つ空間性を
新調として生かし得た点に、子規は碧梧桐の手柄を見たのである。

 子規が雑誌「日本人」に碧梧桐の句風とそれが持
つ意味とを的確に解き明かしている。

     由来彼は秩序的の能力と推理的の常識とを欠く者、少時に在りて敏才の人を

   驚かしたるは彼の不規則なる発達がたまたま文学の方向に向ひしが為なるべし。

   薄弱なる彼の脳漿は平和なる時沈静し居る時に当りて初めて用を為すべし。一

   たび外部の刺撃に逢へば脳漿忽ちに混乱すべく、混乱して後は殆ど狂の如く愚の

   如し。


  後に、碧梧桐と虚子の間に文学の上で、食うか食われる
かの激しい争いを巻き起こすに

 至ったことは、周知の事実
である。

     (クウ)をはさむ蟹死にをるや雲の峰

  雄大な雲の峰、空しく鋏を持ち上げたまま死んでいる蟹の取合せは新鮮であり、従来の

 季題観念にまつわる配合趣
味を打破した見事な一句。掲句は明治三十九年、連日連夜

 修した夏季俳三昧鍛錬会での作。碧梧桐にしてみれば、句作の切磋琢磨は客観の研究

 を第一としなければならないと
する客観尊重の姿勢を堅持しつつ、子規時代の平浅淡泊な

 句風から脱却し、複雑清新な新調を模索しようとする実作の場面であった。

     芒枯れし池に出づ工場さかる音を

  明治四十三年、備中玉島滞在中に論議の中心になったのは「無中心論」であった。これ

 までの俳句は一つの印象、
一つの着想へと単純化を急いではいないか。自然は多様で

 元的だ。俳句の新しい生命とは、たとえそれが破壊的に
見えようとも、複雑で立体的な現

 実把握にあるという確信
だ。野一面をおおっていた芒、間断なく轟音を出している工場の

 活況。ことがらの経過を偽らず、ありのままに描写
した中心点のない句こそ真実を描いた

 ものであり、今後の
進むべき指針としたのだ。これまでの碧梧桐の句調とは違ったこのゴ

 ツゴツ感は、五・五・三・五の四辺形式を踏んで
いるからだ。

     曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ

  屠殺場へ曳かれていく運命を予知したかのように四辻で秋空を見廻す牛の哀れさ。大正

 七年の作。情趣の動くまま
に自由な表現を実践しようとして、七・十一・五の二十三音。定

 型をのりこえた口語調で、いわゆる自由律俳句。

  明治四十年前後に流行した自然主義は、口語自由詩の出現に見られるように、言文一

 致を広く浸透させた。そして、
その自然主義の影響は俳句にも及ぶところとなる。とりわ

 碧梧桐においては、社会への接近や個性の発揮を主張し
ていく。そして、定型や季語を個

 性を束縛する因習とみ
なし、自由律への道を押し開くことになる。定型を否定し、季語を否

 定し、碧梧桐は第一芸術としての俳句をまっすぐに求めた俳人だった。碧梧桐の行動は俳

 句を近代詩の一形句を近代詩の一形
式と考え、その詩の純粋性のみを追求し、俳句精神

 と大い
に格闘していたのだという印象を強く持った。

  碧梧桐がこれほどの大名と仕事を成しながら、赤貧に甘んじていたのは、一途に新境地

 を追求し、変遷したからに
他ならない。昭和十二年、弟子たちの寄付で不遇の師のために

 建てられた新居祝宴の宴から十日後、碧梧桐は世を去
った。法名碧梧桐居士





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