2013/1 bR32 小熊座の好句 高野ムツオ
これまでも機会あるたびに指摘してきたことだし、他の多くの俳人も強調しているこ
とに、俳句の俳句たる力はつまるところは沈黙の力にある。沈黙の究極は一言も発
しないことだが、それでは沈黙そのものも消え失せてしまう。非在や不在が存在を対
極とすることで始めて意識できるのと同じことだ。それなら、もっとも沈黙を湛えてい
るのは一語それのみということになる。しかし、例えば「空」や「海」という一語は、確
かに沈黙そのものだが、その世界は抽象概念そのもので、どこにどれだけの沈黙の
質量が存在しているのか、推し量ることができない。俳句の五七五は、その沈黙の
世界を量ることができる最小の言葉の構造様式なのである。だから、俳句には必要
最小限の沈黙を破る作者なりの意思表示や仕掛けが必要なのだ。それが、つまりは
俳句で表現するということになる。そのもっとも理想的な姿は、おそらくは、たった一
つの物を提示することで成り立つ十七音であろう。しかし、それは至難の業である。
例えば一物といえば
流れゆく大根の葉の早さかな 高浜 虚子
冬菊のまとふはおのがひかりのみ 水原秋桜子
あたりがすぐ口をついて出るが、どちらも叙述という方法を介在させざるを得ず、物
のみで成立しているのではない。むしろ、自らの主張を明確に打ち出すことで沈黙を
湛えている。提示という方法をとりやすいのは、二物並列の場合であろう。
切株があり愚直の斧があり 佐藤 鬼房
戦争と畳の上の団扇かな 三橋 敏雄
断っておくが、これは句の良し悪しを指摘しているのではない。俳句表現の特性を
比較しているだけである。いずれにしても深く広い沈黙を湛えることが、たぶん、俳句
表現の究極の目標である。そして、そのためには、一見主観だらけの言葉の構築も
あっていいのである。俳句の中で物を主張することと、沈黙世界をどれだけ湛えてい
るかということとは別の問題なのである。こんなことを長々と書いたのは、
セシウムと泡立草と蝦夷の地 古山のぼる
の句に感銘を受けたからだ。これは三つの物の並列。しかも、どれもそれぞれ主張
世界を強く感じさせる言葉だ。そして、その三つの主張世界が一つに収斂していくう
ちに現在ただ今の人間の生のあり方が現れてくる。それが、そのまま沈黙の質量な
のである。
まだ生きています冬菊咲いています 平松彌榮子
昼の虫さらには昼の月と星 松岡 百恵
この二句の並列表現にも、それはいえようし、
明日という不可思議なもの雁来紅 小笠原弘子
という主張にもあてはまることだ。この句の「不可思議」は仏語である。人間の心も言
葉も及ばない世界を指している。
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