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 小熊座・月刊 
  


   鬼房の秀作を読む (44)      2014.vol.30 no.348



         潮びたる陰毛流失感兆す          鬼房

                                     海溝』(昭和三十九年刊)


   海水に浸った陰毛が水の中で解き放たれたように揺らめき、今にも流れ出しそうな気

  配がする、というのだ。チリ地震津波に際して詠んだということを知らなければ、満ち潮に

  揺れる磯巾着の穂の戦ぎのようにも思えてきて楽しい。それというのも句またがりの軽快

  なスタッカートのリズムが、ともすれば淫靡に落ちそうなところをかろうじてコケティッシュ

  の域にとどめ得ているからで、つくづくこの渋さをともなった俳味と自在さには敵わないな

  と思う。

   チリ地震の発生は3年生の5月だった。「大津波が来るらしい」と祖父たちは慌てて磯

  の様子を見に降り、母に一歳の弟を背中にくくりつけられて高台に走った。後ろから大き

  な波が押し寄せてくるような気がして夢中だった。弟の首が背中でがくがく揺れた。後で

  大船渡や志津川で何人もの人が亡くなったと知ったけれど、集落の被害状況は床下浸

  水程度。午後からは波が引くたびにバケツ片手に大人たちに交じって魚や貝を拾い歩い

  た。

   〈やませ来る〉と目線を低くして〈みちのく〉を詠み続けた鬼房さんがこの東日本大震災

  に遭遇したらどんな句を詠んだだろう。もはや〈流失感兆す〉ではない。俳味を越えた鬼

  気迫る句になったに違いない。

                                       (菊田 一平「や」「晨」)



   昭和三十五年五月二十四日の未明、チリ地震津波は佐藤鬼房の住む塩竈を襲った。


  二・七mの津波が押し寄せ、塩竈の被害は、死者二名、負傷者七十六名、家屋流失一


  戸、全壊三十三戸、床上浸水八百三十五戸に及んだ。損害は当時の金額で十一億円と


  される。鬼房は四十一歳。夜勤の続く港の冷蔵工場に勤務する鬼房の目に飛び込んで


  来たのは悲惨な光景であったに違いない。鬼房は、「チリ地震津波」と前書をつけ八句を


  句集に収めた。


   鬼房の俳句を前にすると、津波によって陸地に打ち上げられた船が木造船の違いぐら


  いで、東日本大震災の状況そのままの生々しいものだ。


   なかでも掲句は、鬼房の肉体に沁み渡っていく被災の感触が確かな実感を帯びる。特


  に「陰毛」という存在が、津波に浸された現実の、いいようのない不快な違和感を象徴的


  に言い表しているように思える。港に働く鬼房にとっては、日常の働く場における喪失感


  は、津波の海に漂い、浮遊し始めたような感覚であったのだ。


   この時期は、新興俳句、そして社会性俳句を経て、鬼房らしい世界を、腰を据えて作り


  上げようとしていた頃だ。句集のあとがきには、「あいかわらず苦渋の生活詠にすぎない


  が、この『海溝』一篇をもって、鬼房第二期を終わりたい。」と結んでいる。

                                             (渡辺誠一郎)



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