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 小熊座・月刊 
  


   2014 VOL.30  NO.351   俳句時評



         取り合わせ

                              
矢 本 大 雪


   一物仕立ての句であれば、句の内容に疑問は生じない。


    漂へる手袋のある運河かな         高野 素十


   光景は、はっきりしている。ただ、ここにも手袋と運河という、二つを配列したい気分が

  残されている。運河に対して、魚や鳥などではなく、手袋はごみとしては想像できるが、や

  や異質である。むしろ、


    甘草の芽のとびとびのひとならび      高野 素十


   この句のほうが一物仕立ての句として、より明確であろう。では、最初の手袋の句は、

  取り合わせと言えるのか。それはちがう。


    ひるがほに電流かよひゐはせぬか     三橋 鷹女

    炎天を行くやうしろは死者ばかり       石塚 友二

    巻尺を伸ばしてゆけば源五郎        波多野爽波


   これらの句のように、異物感を伴う二つのものが一句の中に配列されていることを、取

  り合わせと言いたい。

   ではなぜこのような技法が生まれるのか。それは俳句が十七音という、強烈に短い形

  式であることに原因している。一物仕立ての句だけでは、内容も世界もどこか窮屈になり

  かねない。「ひるがほ」と「電流」を取り合わせることで、より「ひるがほ」が生き生きとして

  きはしないか。「炎天」は、いかにも「死者」の長い列を想像させる。それは戦後の「戦死

  者」をも想像させるが、炎天の持つ、異様な暑さにだらだらと並ぶ生者も、死者と変わら

  なく見えることもあるだろう。「巻尺」と「源五郎」に至っては、驚くしかない。しかも、不思議

  な説得力を伴っている。これら二つの、一見無縁なものを配列することで、句の中に不思

  議な作用が生じる。まず簡単に読み下せなくなる。つっかえるのである。謎が生まれる。

  これがポイントになる。のびのびとおだやかな一物仕立ての句は、確かに俳句の基本で

  はあろうが、読み終えて何事も起こらないことも多い。ところが異物同士がぶつかり合う

  取り合わせでは、作者ですら意図しなかった感慨が起こりうるのだ。

   ひるがほに電流を感じたのは作者の感受性であろう。それを言われて、思わず納得さ

  せられるのが凡人の哀しさではあるが、なるほどそう感じてもよいのだと、また気づかせ

  られるのも句作に携わる者の嬉しさかもしれない。炎天の死者に至っては、自分もそう感

  じていたことを再確認させられ、巻尺を伸ばして何かに突き当たることをこの句で教えら

  れる。もっともこれらの句は、少し極端に異物感を露わにし過ぎたかもしれない。


    秋風や模様のちがふ皿二つ         原  石鼎

    凩やからまはりする水車            中川 宗淵


   このような取り合わせがわかりやすい例として挙げられよう。秋風と皿、凩と水車のよう

  に、どちらも光景とものの関係。背景も物体も互いの存在を補完し合っている。一方が他

  方の背景と化し、互いの存在を際立てている。秋風の中に置かれたからこそ、模様の違

  う皿二枚が際立つのだが、むしろ皿が秋風をより目立たせているともいえる。凩と水車の

  関係においても同じことがいえよう。二つの句のもの同士の関係は、互いに引き立て役と

  してわかりやすいのだ。


    しぐるるや駅に西口東口            安住  敦

    かもめ来よ天金の書をひらくたび       三橋 敏雄

    高波の夜目にも見ゆる心太          川崎 展宏


   取り合わせは、モノとモノ、モノとコト、あるいはモノと想いなどが考えられるが、多くは二

  つの言葉が互いに触媒として作用しあう関係にある。

   時雨れている街と、駅の西口東口。駅の出口が二つあることは単なる事実でしかない。

  ところが街が時雨れることによって、その事実に不思議な哀しさや、儚さのようなものまで

  付与してしまう。また駅に西口と東口があることが、時雨を必然的に呼んだかのような錯

  覚まで起こさせる。かもめと天金の書に至っては、その関係はもっと密になり、必然とし

  か思えなくなる。少なくとも、作者の中ではそう思わせるだけの理由がある。かもめと天金

  の書は、互いを触発し合い密接な関係を作り上げていく。それはまさに詩魂というべきで

  あろう。かもめを思っていれば、詩人の前には天金の書が現れ、天金の書をひらくたび

  にかもめは飛び来る。何故かもめでなければならないのか。何故天金の書なのかは、愚

  問であろう。先に掲げた句でも、ひるがほと電流は、作者の中では緊密に結びついてい

  る。ただし、それを追体験するには、多少その句に深く入り込まなければならないだろう。

  しかも、書かれてしまえば、十分な説得力をもって我々に迫ってくることがある。だからこ

  そ取り合わせの成功例として存在するのだ。言葉同士が触媒として機能するゆえ、二つ

  の言葉の間に物語が生まれる。時間が生じる。見えない縁が、二つの言葉を行き来し始

  める。だからこそ取り合わせは難しい。適当に言葉を連ねれば成立するわけではない。

  作者の詩魂が試されるのである。巻尺と源五郎などは、我々の推理の範疇をはるかに

  飛び越えた取り合わせであり、そこがくすぐられるからこそ、説得力を持つ句になってい

  る。

   取り合わせは、一句一章では伝えきれない何かを句の中にもたらす。言葉が本来の意

  味のほかに、二つがぶつかり合うことで、ささやかな化学反応を引き起こすからである。

  その化学反応がより規模を大きくしたものが、モンタージュであろう。モンタージュは取り

  合わせの延長上の、より意識的な手法であろう。次回はそれを検証してみたい。






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