小 熊 座 2015/9   №364 小熊座の好句
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     2015/9   №364 小熊座の好句  高野ムツオ



    深川や馬穴に小判草育て        田中 麻衣

  地名を始め固有名詞を用いるのは難しい。たまたま、その場所であったとか、そう

 いう名であったから用いたという場合もある。そして、それでも、それなりの効果を上

 げる場合もある。反対に無理に辻褄を合わせたり、それらしく作ろうとして失敗する場

 合も少なくない。用いられた固有名詞への思い入れも詠み手、受け手千差万別だか

 ら、そこにも難しさが横たわる。一句目、なぜ深川なのか。切字まで用いているから、

 かなり作者の思い入れが濃いことはわかるが、その地になじみがないと、なかなか理

 解し難いかもしれない。しかし、深川と聞けば芭蕉や波鄕を思い浮かべる人も多いだ

 ろう。深川は元々埋め立て地。庶民の町である。埋め立て地だから、洪水や高潮な

 ど災害も多い。しかし、水運の利便性があったから人が集まった。江戸の文化「粋」も

 ここから生まれた。そうした土地の顔が見えてくると「馬欠の小判草」という寸景がさ

 まざまなことを語り出すのである。

    痛みやや遅れて来たり敦盛草     我妻 民雄


  それは、この句にも言えること。作者が今味わっている痛みが実際には何故である

 のかははっきり窺い知れないが、その痛みが熊谷直実と平敦盛との逸話と、どこか

 で響き合うのだ。

    まだ生れぬ梢をわたる夏の風     浪山 克彦

    茂る木の無音が奥を広げおり     清水 智子


  どちらもいわゆる諷詠と呼ばれる作りだが、どちらにも共通しているのは、想像力

 を働かせて、見えないものを見、自然と感応しているところである。一句目は、これか

 ら、なお伸びて葉を茂らせるであろう未来の梢を見ている。二句目は茂りそのもので

 はなく、茂る木が作り出した無音が、その奥を広げているというのである。木々の静

 かな、しかし、底知れない生命感が満ちている。

    いかづちやもとより吾の中に雷     関根 かな

  雷鳴とそれに相対している自分の命のありようを詠んだ句。 (姫神の中腹に雷こ

 もるらし 鬼房) をふと思い出した。掲句はその神話的世界とは質を異にするが、雷

 によって、呼び出された原初的なエネルギーが、肉体的な生々しさを伴って表現され

 ている。

    一片の詩も残さずに白蛾死す     渡辺 規翠


  俳句はやはり詩であると再確認させてくれる句である。「一片も残さずに」という表

 現が、むしろ、死んだ白蛾の翅が詩の一片であったかのように感じさせる。それは蛾

 の一生自体が詩の一片であったということに通底する。

    蜻蛉の翅の鉄路を聞くかたち      瀬古 篤丸

  実際に見た蜻蛉の姿であろうが、当然、幼い頃鉄路に耳を当てて、やがてやってく

 る汽車の音を聞こうとした記憶が重なっている。汽車はまず音から子供の世界へと

 やってきたのである。





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