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 小熊座・月刊 
  


   2016 VOL.32  NO.368   俳句時評



      草木塔に思うこと


                              渡 辺 誠一郎


  先日、吟行に誘われ、山形の米沢―置賜地方に数多く残されている「草木塔」・「草木供

 養塔」を見ることができた。名の通り、草木の霊魂を鎮魂する碑である。この地方は、全国

 的に見ても、建立の数が圧倒的に多い。碑文に刻印された年代を見ると、最も古いのは、

 安永9年(一七八〇)のもので、江戸期のものがほとんどである。数は少ないが明治以降

 のものも見られる。碑には、「草木国土悉皆成仏」の文字などもあり、仏教の影響も見られ

 る。また湯殿山の板碑などとともに建てられていることから、山岳信仰や修験道の影響も

 あるとされる。建立の理由としては、昔から、この地方は、林業が盛んであった歴史がその

 背景にあるからだという。しかし、なぜこの地方に特に数多く残されているかはまだまだ不

 明なところがある。

  草木塔は、草木まで命が宿るとする生命観による。この考え方は、人間のみならず動物

 を含めた、生き物はみな平等であるという世界観に基づくものだ。それは、石などの無機

 物までも同じように魂があるとする、アニミズムの世界である。

  米沢の後、東京で、人類学者中沢新一氏の講演会(現代俳句協会・総会)を聴く機会が

 あった。演題は「俳句のアニミズム」。話の切り出しが、期せずして草木塔であった。

  中沢氏は、いわゆる西洋思想のアニミズムの考え方と、アメリカ先住民の考え方では、

 違うという。西洋の考え方では、魂のない無機物に、外部から魂が入り込む考え方だが、

 アメリカ先住民の考えでは、浮遊する魂が無機物にも形を変えるものだという。無機物もは

 じめから魂を持っているのである。この考え方は、アイヌ民族も同じである故に、わが縄文

 人も同様であっただろうという。これは、世の全てが一つの平等な、等しい存在であるとい

 う考えである。中沢氏は、金子兜太の俳句、〈おおかみに螢が一つ付いていた〉を引きなが

 ら、人間はもとより、動物・植物・山地などの自然界も平等に詠う俳句こそ、アニミズムの詩

 と呼ぶにふさわしいと話を結んだ。

  ところで、「季語は凌辱されたのではないか」との声がある。総合雑誌「俳句」の中で、仙

 台の歌人佐藤通雅が、福島の原発事故による放射性物質の飛散を踏まえて述べたもの

 だ。これは、歌人から俳人への問題提起であり、季語墨守、歳時記を片手に諷詠にいそし

 む俳人へのある種の挑発のように思える。

  凌辱されたのは、確かに歳時記に収められた、四季折々を象徴する季語であることには

 違いない。目に見えない放射性物質に汚染され季語の本意が歪められたと言える。

  さらに、先の話に戻れば、無機、有機物すべてに魂が宿るとすると、まさにその魂が凌辱

 されたことなる。他方、放射性物質にも魂が宿るとすると、話は複雑に混乱してくる。

  また、凌辱の意味の根本にあるものを考えると、季語の持つ心地よさ、安定感、安心感

 のようなものに、緊張感もなくもたれかかるようにして作句している、俳人のその姿勢に向

 けられているのだと思う。

  しかし、現代の俳句は、季題趣味的な俳句を諷詠する立場は別にして、既成の情趣を踏

 まえつつも、作者が主体的に表現する世界でもある。それ故、季語の従来までの情趣に新

 たな要素―たとえばここでいえば、放射性物質が飛散した現実、付着したままの物を、積

 極的に諷詠することが求められるようになったと言えないだろうか。まさに今までの情趣が

 そのまま十全意に通用しないという意味では凌辱なのだ。

  だが、このようなことは決して新しいことではない。かつての災害や戦争などでも同じこと

 はあったはずだ。ただ質的、あるいは規模の違いはある。

  しかし、改めて考えるに、そもそも季語は必ずしも予定調和的世界ではない。京を中心と

 する衣食住にまつわる暮らしの移ろいをそのベースに置いているとはいえ単純ではない。

 京以外の風俗も抱えていないわけではないのだ。

  雪国越後を綴った『北越雪譜』のなかで、鈴木牧之は、「近来も越地に遊ぶ文人墨客あ

 またあれど、秋のすゑにいたれば雪をおそれて故郷へ逃にげ皈かえるゆゑ、越雪の詩歌

 もなく紀行もなし。稀には他国の人越後に雪中するも文雅なきは筆にのこす事なし。」と嘆

 いて見せたのは知られるところ。季語の本意は京にありとする世界への、嘆き、反発とも

 いえる。

  小林一茶に、〈是がまあつひの死所かよ雪五尺〉 (夏目成美が「死所」を「栖」と改め

 た)の句があるが、生活、そして命すらも押しつぶしかねない圧倒的な雪の存在感が際立

 つゆえに、「死所」が生々しくもせつなく我々に迫ってくる。また、〈せき候ぞろ(節季候)に

 負ぬや門のむら雀〉
など、一茶は当時の差別層に対しても、己自身を重ねるように、まな

 ざしを向けている。一茶の雪や正月の風情は、いわゆる歳時記の世界にきれいに収まっ

 ているものではないのである。 

  まさに自らの目で現実を詠んでいるのである。翻って我々に求められているのは、やはり

 現実である。特に目には見えない放射性物質を浴び、今なお除染が進まない自然を、現

 在のこととして捉えられるのかが問われているのだ。

  放射性物質の半減期の長いものは10万年後まで及ぶことを想うと、射程の長い視線が

 求められる。一茶が詠ったように、越後の雪と江戸の雪の違い、差別の構造のように、き

 れいごとだけの季語観からは見えないものまで、捉えられのかということだ。現実から目を

 そらさずに、見えないものを透しするようにして現実を詠う、そのことを通してしか、凌辱さ

 れたとする季語の蘇生はないのだと思う。

  草木塔を建てた先人らは、想像力をもって、草木に寄り添い、我々と同じような霊・命あ

 るものとして、実感を得とくしたと言える。木を引く鋸の震えや斧が木に食い込む響きに、

 命の確かな存在を見たからなのだろう。

  俳句も同様に、まさに見えないものをも含めて見ることを通して、はじめて現在を捉えら

 れるものだと、草木塔を見て改めて思った。





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