小 熊 座 2016/2   №369 小熊座の好句
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     2016/2  №369 小熊座の好句  高野ムツオ



    トウキョウダルマガエル被曝す冬眠す      須﨑 敏之

  
まもなく大震災から五年を迎える。俳句の世界でもいわゆる震災詠と呼ばれるもの

 が少なくなっているが、福島の原発事故に限って言えば、いまだその災禍は進行中

 で、句のリアリティも深刻さをより増しているように感じる。これは私だけだろうか。ト

 ウキョウダルマガエルはトノサマガエルによく似た蛙で、専門家でも区別が難しいらし

 い。関東には基本的にはトノサマガエルは生息しないので、ほとんどはトウキョウダ

 ルマガエルだという。まあ、名前はどっちでも良さそうだが、この句ではやはり「トウキ

 ョウ」という名が物を言う。場所は、作者の住まいの茨城でも、被曝地の福島でも、こ

 れもどっちでも良さそうだが、やはり福島の蛙だろう。いわき市生まれの草野心平の

 詩の蛙なら更にいい。例えば詩「秋の夜の会話」。「さむいね、ああさむいね」で始ま

 り「せつない腹」をとったら死ぬと思いながら腹を摩っている蛙は、この句の蛙の姿に

 そつくり重なる。せつないのは、もちろん放射能のせいだが、しかし、その腹を抱えて

 冬眠するしかない。蛙は生物の放射能汚染度を測定するに重要なサンプルであると

 もいう。すべて、人間の仕業である。

    原子炉を遮ぎるたとえば白障子         渡辺誠一郎

    大障子開くフクシマ見ゆるまで          後藤 悠平


  この二句は、その元凶である原子炉を詠ったものだ。同じ題材でありながら、表現

 も内容も実に対照的。

  前者は日本古来の薄っぺらな紙と木の区切りこそ、原子炉の放射能を遮るにもっ

 てこいと言う。被虐そのものを逆手にとったしたたかな抵抗精神と言うべきだろう。後

 者には遠く隔てすむものの、福島という土地への無言の愛が溢れている。

    安達太良に雪胸中に詩語の渦          橋本 一舟

    海を恋ふ会津身不知手にのせて         坂本  豊


  この二句もテーマは福島。 前句の詩の渦は高村光太郎の胸中にも溢れていたも

 の。後句の会津柿の重さは、そのまま放射能禍で故郷に帰れぬ人の心の重みであ

 る。

    一位の実口に含みて脛巾神            永野 シン


  一位は全国どこにも見られる木だが、生育は北が適していて北海道にとくに多い。

 樹齢重ねた大木には神木となっているものもある。オンコは北国での名だが、アイヌ

 語ではクネニと呼ぶ。これは弓の木という意味で弓を作るに適していたからだ。掲句

 は一位の実を含んでいるのは作者とも脛巾神ともどちらにも読めるが、弓の木であ

 るというのは脛巾神(ハバキガミ)となにやら符合する。谷川健一に拠れば、脛巾神

 はもともと先住民族、つまり、蝦夷の神であった。それが大和朝廷の神社に組み入

 れられ、外敵から防ぐ役目におとしめられたのである。つまり、蝦夷をもって蝦夷を防

 ぐという訳だ、征服者がよく用いる方法である。その神が弓の木の実を含んでいる。

 一位の実は甘いが種は毒がある。毒矢は蝦夷がよく用いた武器でもある。こうした辻

 褄合わせは一つ間違えば、鑑賞を小理屈におとしめてしまう危険があるが、私には

 脛巾神の忍従の歴史もしだいに見えてくる。ちなみに多賀城址の築地の外にも荒脛

 巾神社が鎮座している。

    鶏頭のその幻影がどうしても           春日 石疼


  この幻影は子規の〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉が生んだもの。なぜ十四本であ

 るか。この句が果たして名句なのか。さまざまな論議の果てに鶏頭はかく存在すると

 俳人の脳裏に定着してしまったのである。言葉の魔力というものである。

    電線は地中にありぬ冬銀河            髙橋 彩子


  天上の銀河と地下の電線との眼には見えない不思議な交響の世界である。以下残

 念ながら触れられなかった句をいくつか。

    何処より来たる帆船冬の鳶            日下 節子

    わが地球霧氷生まれて音なき音         斎藤真里子

    風花の地祇へ舞ひくるはるかより         平山 北舟






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