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 小熊座・月刊 
  


   2017 VOL.33  NO.380   俳句時評



      林田紀音夫

                              矢 本 大 雪


  無季俳句と言われれば、私なら真っ先にこの人を思いだす。むろんそれ以前にも、種田

 山頭火や尾崎放哉の存在も句作品も知ってはいる。しかし、山頭火も放哉もやや感傷的

 すぎ、また季語こそ用いらねど、季節感はたっぷりの句ばかりである。まるで、自分のなか

 にこそ自然は息づいているのだと言わんばかりに。


    月光のをはるところに女の手                     林田紀音夫

    騎馬の青年帯電して夕空を負う

    階段の他人が武器の音たてる

    幼くて血のいろ映える鼓笛隊


  これらの句のどこに季節感を感じたらいいのか。いや、俳句にもともと季節感など必要と

 されていないのか。精査してゆくと、季語の意識をもって句に現われているフレーズは見つ

 けられなかったけれども、季節を代表する言葉が全くなかったわけではない。少し挙げて

 みよう。


    雲雀より高きものなく訣れけり

    逃げ場なければ寝顔まで月がさす

    さくらの下を過ぎて深夜に齢足す

    月夜疲れて石鹸の泡生む手


  これらの句の中の「雲雀」「さくら」は無論季語であり、「月」も季節感を帯びている。どうも

 林田氏の中の季節は、季語に代表されるものではなく、むしろ花瓶や机と同様にものの手

 触りを供えた名詞のひとつに過ぎなかったのではなかろうか。だからこそ、句の中に入り込

 んでも構わないし、なくても構わなかったのではなかろうか。ただし、「戦後も一貫して新興

 俳句の切り開いた無季俳句とその精神を自分の句作の根底に据えて、その独創的な推進

 展開に挺身してきた」(川名大『挑発する俳句 癒す俳句』)のだろう。ところが、林田氏は

 意識的に昭和二十二年より無季俳句を試みてゆく。そして有名な次の句が生まれる。


    鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ

    銀行へまれに来て声出さず済む

    黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ

    消えた映画の無名の死体椅子を立つ


  「金剛」時代から「十七音詩」時代を貫くモチーフは孤独や疎外感や死の意識である。(川

 名大)彼の意識は直接、間接的に句に顔を出している。ひとつのモチーフに拘れる姿勢は

 羨ましいような、羨ましくないような気がする。その作品にはとてつもなく魅力を感じなが

 ら、そこまで自身を追いつめてゆくなにかには恐怖も感じるのである。戦後生まれの私に

 は、すでに「死」は身近ではなくなってきているのかもしれない。だから、全く個人的な体験

 をもとに、林田作品に接してみたい。

  俳句を始めてすぐに、林田作品は好きだったから、積極的に暗誦しようと思ったものだ。

 ところが【鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ】がなかなか暗誦できないのである。

  まず、句の暗誦においてはいろいろな方法があるが、この句の場合は、原句の意味・内

 容から入ってしまった。だから、鉛筆で書かれた遺書であるならば(その形式の手軽さによ

 って)簡単に忘れられるであろう、という意味から「鉛筆で書かれた遺書ならば」という風に

 覚えてしまったのである。この「書かれた」の部分が説明になっているとは理解できるのだ

 が、実際には頭にこびりついてなかなか離れてくれなかった。何故だろう、という思いが湧

 いてきたが、他にも【いつか星ぞら屈葬の他は許されず】の句の場合は、上五が思い出し

 にくかったし、【死者の匂いのくらがり水を飲みに立つ】の句の場合は、下半部がすっぽり

 抜け落ちてなかなか出てこない、のである。

  自分なりに考えてみたのだが、どうもこれとした原因が思い浮かばない。ひとつ考えられ

 るのは、無季俳句のせいかもしれないということだけである。個々の俳句作品において、

 季語は単に句の彩としてのみ役立っているわけではないようなのだ。たった十七音の一句

 を暗誦する際に、大変重要な役目を果たしているのではないか。あえて無季俳句に走った

 林田作品には望むべくもないことだが、その魅力的な詩形を支える季節感が乏しいため、

 暗誦の場面では取りすがるものがとても少なくなる。そういうことがあるのかもしれない、と

 思いながら、もう一句へのアプローチが気になっていた。それは【黄の青の赤の雨傘誰か

 ら死ぬ】とこれも林田の有名な作品の暗誦にもたついた経験なのである。この句の場合は

 内容からではなく、その軽快なリズムが起因したようだ。最初は「赤の黄の青の」と間違え

 て覚えてしまった。しかし、今、原句を検討してみると、実に理知的に言葉が配列されてい

 る。「きのあおの」は一句の出だしとしては十分計算され、「あかの」に続いて雨に濡れる子

 供達の傘の彩が鮮明になる。そういう配慮で配置された言葉を、何気なく頭に叩き込もうと

 した迂闊さが暗誦を困難にしたのだが、よくよく原句の意図を踏まえてみると、暗誦はたや

 すくなる。

  それにしても、林田作品は内容の冒険性が、(いやむしろ書きたかったことの詩性がそう

 させるのだろう)選んだ無季俳句のおかげで、その詩形などは特別だと感じないのに、ここ

 まで暗誦をむずかしくさせるとは、自分の甘さを恥じ入るしかない。それほど我々は季語の

 ある俳句に慣れすぎてしまっている。無季俳句は決して俳句の本筋ではないだろうが、今

 少し立ち止まって、自分の句には本当に季語が必要なのかを考えてみる必要があるので

 はないか。
【草や木の雨に髪から濡れてみる】そんなことを考えた。



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