小 熊 座
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 第十回 佐藤鬼房顕彰全国俳句大会シンポジウム


           
鬼房俳句と軽みについて  


                               平成29年3月18日
                                於 塩竈市ふれあいエスプ塩竈

 本シンポジウムは、第十回佐藤鬼房顕彰全国俳句大会において実施されました。参加

者を巻き込み、熱気溢れる討論でした。


                
パネラー  関 悦史、栗林 浩、関根かな

                司  会  神野紗希


    


    軽みと重くれ

神野
 鬼房俳句の中の軽みをどのように見いだしたかということを、それぞれ、お三方に

聞いてみたいと思います。栗林さん、今回の鬼房俳句と軽みについてというテーマをもら

った時に、どう思われましたか?

栗林 そうですね、誠一郎さんが宿題だされて、あー誠一郎さんらしいなあと。難しかっ

たですね。私、鬼房先生の、第一句集から第十四句集まで全部読み返して、昔私自身が

書いた文章も読んでみて、その中に軽みっていう言葉がでて来なかったんですよね。でも

今考えると、あーこれが無理に探せば軽みなのかなというようなのはあるような気がしま

した。でもそんなに勉強しない前にですね、宿題三句、出してしまって、あーしまった、こ

れは軽みじゃないかもしれないなというふうに反省しているんですけどね。ですからこの

三句、あまり当てにならないんじゃないかと思ってます。とにかく、軽みを深く勉強する前

に、しかも今勉強しても「軽みとは何か」が分からないですよね、なかなかね。分からない

理由を俳文学者はいろいろ言っていました。そういう方面から、例えば句のパターン、形

から軽みを分類しよう、これが軽みの典型のパターンなんだという追いかけをしていくか

らわからなくなるというようなことを小西甚一さんは言っていましたけれども。でもですね、

よくわからないんですけど、とにかく「重くれ」の反対のものだということで、私は勘違いし

ていたかもしれません。短兵急に面白い、軽い句をということで三句あげましたけど、ちょ

っといま反省してます。

神野 ちなみにこの三句をあげた理由などをお聞かせいただければ。

栗林 理由はですね、いま反省しているんです。ですから後付けになりますが…。あの、

一番目は〈除夜の湯に有難くなりそこねたる〉。まあ、有難くなるっていうのは、死なな

いで生き残ったという喜びなんですけどもね。それが死というような重い言葉を使わない

で、俗語の、しかもある地方に特有の、あの世へ行くことの言い回しなんでしょうね。〈有

難くなりそこねたる〉と。そういうことを言っているのは、ひょっとして軽みなのかなと。重い

ことを軽く言ったと。で、いろんな軽み、調べますと、内容が軽ければいいというようなこと

ではないと書いてありますね。やはり、腹の底から出てきた重い言葉、重たい思いを、そ

う技巧を凝らさずに、難しい言葉を使わずに、平明に直感的に書くということだとすれば、

いいのかなと。私、あまり長く話してはいけないからこれぐらいで終わります。

神野 いえいえ、ありがとうございます。まさに〈有難くなる〉という俗語を使っていたり、除

夜の湯も日常の風景ですから、軽みに通じるところがあるなと思って、受け取ったときに

なるほどと思った句でした。では続いて関根かなさん、いかがでしょうか。

関根 おそらくは去年の九月か十月のテーマのお知らせのお手紙を渡辺誠一郎編集長

からいただいたとき、すぐ、封閉じました。そのくらい、あの、えー軽みですかという感じで

ちょっと頭が混乱した覚えがあります。今まで割と具体的なテーマを、いろいろ議論もあ

ったんですけれども、「愛」とか、「みちのく」とか、「諧謔」だとちょっと観念的になりますか

ね。わりと具体的なものがあげられながら、今回ちょっと俳句の技術的な部分も掘り下げ

ていかなくてはいけないなというところで、その、秋の時点では一旦は閉じさせていただき

ます。今までやはり先程栗林さんもおっしゃっていたのですが、鬼房はイコール重厚であ

るという考え方に基づいて考えすぎていて、あまり軽みと結びつけていなかったという反

省点をふまえて、考えたという感じでした。三句、やはり栗林さんもおっしゃってたんです

が、従来その重くれと反対する意味での軽みという定義に基づけば、私ちょっと誤った選

択をしてしまったなというのは、反省としてあります。例えば、私いかなるテーマでも〈やま

せ来るいたちのやうにしなやかに〉
の句を出してしまうのですが、これは軽みに該当し

ないなと今感じています。

神野 いえいえ、私がはじめに簡単な「軽み」についての解説をしましたが、それはあくま

で芭蕉が初めに言った軽みということで、それプラスアルファいろいろ俳句史上、議論す

るなかで広がってきた軽みもありますので。かなさんがあげた〈やませ来る〉の句、私もあ

げようか迷ってやめた句だったんですけど、とても表現は平明ですよね。〈いたちのやう

にしなやかに〉。

関根 鬼房は平明でありながら逆説をもって来ているんじゃないかなと思います。平明な

表現をしながらも、〈やませ〉という、あのような冷害を重たく逆に伝えようとしているので

はないかと、いろいろ考えさせる句ではあるのかと思いました。軽みっていうのは、すごく

重たいテーマであっても、平易な、平明な言葉を使って表現するというのが、一義的なも

のかなという理解のもとで鬼房俳句を読み直した次第です。とりあえずは以上です。

神野 はい、ありがとうございます。では関悦史さん、いかがでしょうか。

 はい、私も選句というか例句を選ぶのに相当手間が掛かりまして。芭蕉の軽みをや

っぱり私も調べてみたんですけども、軽みっていう理念が出てきたのは一種の文学批判

ですよね。それまでの作品が重くれに走っていたので、それが嫌になったからその逆方

向に行くという。その軽みの理念を直接芭蕉が解説した言葉というのはないのですが、

軽みに関連して、「高く心を悟りて俗に帰す」という言葉が三冊子に残っているらしいんで

すが、これの例でいうと、重い内容を、そもそも句の中には明示しないというのが普通の

形であろうと。そうするとね、私も一応三句出したことは出したんですけど、〈蝙蝠傘の骨

が五月の砂山に〉 〈晩夏光とは年寄りの脳味噌なり〉 〈病む母を騒がしておく夕

月夜〉
とあるのですが、どれもマイナスの言葉が入っている訳でしょ。骨であったり年寄り

であったり病むであったり。こういうマイナスの言葉が深刻なテーマとして入ってきてしま

っている。〈木のもとに汁も膾も桜かな〉という芭蕉の句でいうと、これは俗な汁とか膾とか

花見の風景を、季語……当時季語という言い方はしなくて、季の詞だったと思うのですけ

ど、桜が季語的な宇宙から照らしてくれて、それでちょっと俗なものが軽んじられて、華や

かというか軽やかになる、そういう作りになっているのですが。鬼房の場合はそういう俗な

こと、俗な要素があるのですが、それが必ずしも軽い風景でもないし平明化することを目

指してもいない。〈蝙蝠傘の骨が五月の砂山に〉の場合ですけど、文体はごく散文的な

作りで平明に見えるんですよ。まあそこらへんに放り投げてある蝙蝠傘の骨ですから、も

うこわれちゃった蝙蝠傘でしょう。それが砂山に捨ててある。これ自体はまったく卑俗な

光景ではある。そこに対していちおう季語のほうから五月という要素がはいって来て、こ

れで綺麗に軽みの方向に多少引っ張ってくれるのですが、それにしても骨が強いんです

よ、やっぱり。だいたいここまで選句するためにずっと鬼房の句を読みかえして来て、重く

れに対する批判としてなにかをやるとしたら、鬼房の場合はそこから何か俗なものを軽

みとして詠むという方向よりは、重くれを乗り越える為に、真に重いものに行くという。そっ

ちの方向に行く傾向が強いんじゃないかと思いましたね。まあだから〈年寄りの脳味噌〉

に対する〈晩夏光〉とか〈病む母を騒がしておく〉に対する〈夕月夜〉とか、全部それぞ

れ綺麗な方向にもっていく要素は多少あるんですけども、その綺麗なものが入ることによ

って、よりその人生の真実の重みみたいなものが際立つという方向に、どうも鬼房は行き

がちなんじゃないかなと。そうすると軽みっていう補助線みたいなものを鬼房に対してもっ

てきて、そこから出てくる鬼房の特徴としては、軽みの方向にはなかなか行かない人だよ

なというようなことじゃないかと。とりあえず以上です。

神野 ありがとうございます。お三方の意見を伺っていると、わりと共通する部分があっ

て面白いなと思ったんですけれども、鬼房の軽みの句を探すのに非常に苦労したと。さら

に言えば、逆説的な部分を抱き込んでるんじゃないかと。俗なものを平明な言葉で詠ん

だものという枠組みで言えば、鬼房の俳句の中にもいろいろと見出すことが出来るんだ

けど、それが素直に詠んでいるものかというと、そうじゃなくて〈やませ〉の厳しさを逆説

的に「しなやかに」と言っていたり、重い内容、死とか老いとかそう言ったものを、まさに諧

謔ですよね、逆説、諧謔の意味で使っていたり。軽みの補助線を引くことで鬼房の重たい

テーマが見えてくる。お三方わりとそういう方向だったかなと思います。私も基本的に賛

成で、鬼房の俳句を今回見直していって、やっぱり重くれの魅力が強いですよね。私が

選んだ句は、その中でもできるだけ軽く軽くと思って軽いものを探していったら、今度は面

白いのかどうか分からなくなってきたというところに辿り着いてしまったんですけれども。

例えば一句目〈今晩は今晩は枯芒原〉。これはもう今晩はという日常の挨拶を二回繰

り返して詠んだというところで無理矢理軽みと判断していれてみました。枯れた芒原にだ

んだん夜がやってくる。今晩は今晩はと言う度に夜がやってくる。芒原は枯れてゆくけど

夜の間は生きている感じがしますね。私が選んできた三句は平明なこと、そこまで重い

内容が入ってこないということで選んでみました。でもそうするとあんまり鬼房らしくない

俳句になってしまうというところがちょっとジレンマだったんですけれども、なんかね、作者

の名前を変えても通りそうな句になった。ところが、この句で鬼房の軽みを語って、果たし

て面白いのだろうかという。句としては好きなんですけどね、〈今晩は今晩は枯芒原〉

だんだん暮れてゆく芒原に、ずっと居たいような、ずっと居たらもう戻れなくなってしまうよ

うな、そんな気持ちが調べで迫ってくるような一句です。今回みなさん、鬼房の後半生、

晩年に作られた、ある程度年を経てから作られた俳句から選んで来られてると思うんで

すけども。栗林さんの『霜の聲』の〈老衰で死ぬ刺青の牡丹かな〉〈除夜の湯に有難

くなりそこねたる〉
、この辺りは老いということとも関わってくるかなと思うんですが、軽み

と老いっていうのはよく一緒に語られて、芭蕉も晩年に軽みって言ったので、大体俳人の

人はちょっと老いてくると軽みって言いだし易いみたいなところがあるかなと思ってるんで

すけど、栗林さん、ここで老いと軽みっていうことについて何かあれば、この〈老衰〉の句

も併せて聞いてみたいなと思うのですが、いかがでしょう。


    軽くならない鬼房


栗林 そうですね、鬼房先生の後半のほうは老病死、それから自分が何者かということ

を追究する句がものすごく多いですね。そういう句がほとんどなんですが、その中で、我

田引水的に軽みと言えないだろうかなと考えたのが、〈老衰で死ぬ刺青の牡丹かな〉

これは牡丹というね、なんですか、昔から詠まれた雅な花に対して、老衰という言葉をも

ってきて、しかも刺青という俗のものを持ってきてですね、しかしやや第三者的にそういう

景をぽっと詠んでるということで、重いながら軽く表現しているのかなと。まあ関さんおっ

しゃった、重みを越えて、さらにその重みの上でやわらかい軽みをということでは必ずし

もないですけれどもね。それから、その意味では神野さんが選んだ三句に似通ったのが

私の三番目の〈絲電話ほどの小さな春を待つ〉。これは全く言葉も内容も重くないし、

ほんとに軽いですね。こういう句が存命中の最後の『愛痛きまで』、これは第十三句集か

な、これで出てるんですけども。こうやって見ると、さっき神野さんがおっしゃった通り、こ

れ神野紗希作って書いてもいいですよね。鬼房さんらしくない。ですから、やっぱりね、軽

みでもって鬼房さんを論ずるのは非常に困難を感じましたね。正直。はい。

神野 そうですよね、さっき芭蕉の「軽み」論は、まず、過剰な表現の抑制というのが一

つ。でも、過剰な表現自体が鬼房の魅力でもあるというか。そうですね、〈長距離寝台列

車のスパークを浴び白長須鯨〉
とか、かなり派手ですよね。そういった、過剰であるとこ

ろが、鬼房の魅力。それから、芭蕉の「軽み」二段階めの方向性は、素直な自然観照に

よる平明な表現というところでしたが、鬼房の場合、素直じゃないっていう、どこかぐるっ

とねじくれているというのがやっぱり反骨の魅力。で、芭蕉の「軽み」の最終章は、芸術的

身構えを捨てて、日常の中に日常の言葉を詠む。でもやっぱり非常にポエティックな部分

を持っているのが鬼房の俳句でもある。現代詩的な言葉や要素がすごくあるというところ

で言うと、さっきあげた芭蕉の軽みの三つの方向性の反対を行くようなところがあるんで

すよね。でも、〈絲電話ほどの小さな春を待つ〉の句は私も非常に惹かれる句です。で

は、かなさん、いかがでしょうか、そのへんを含めて。

関根 そうですね、線の引き方の問題だとも思うのですが、軽みというものを面白みと捉

える方面と、全くの、本来の定義に基づいて重くれに反対する軽みと捉える方面とである

と思うのですが、私、平明な言葉というところにポイントを定めて、しかしながら〈いつまで

もある病人の寒卵〉
というのを選んでいるんですけれども、やはり病人という重たい言葉

が出てきてるんですね。でも全体的に読むと、なんとなくその病人たることを肯っているよ

うな、それを軽みによって容認しているというように、ちょっと無理矢理解釈してしまった

かなというようなところもあるんです。〈七五三妊婦もつとも美しき〉というのはあまり知

られてる俳句ではないと思うのですが、七五三において、妊婦という着眼点。その組み合

わせを軽みと捉えて選ばせていただきました。以上です。

神野 鬼房の俳句を若い頃から見てみると、昔に比べると軽くなったとか、鬼房の中でい

うとちょっと軽やかになってきたとか、そういう傾向は見られるんでしょうか。

関根 そうですね、私、鬼房の全句集を読み返しながら、初期の句にも見いだせないか

と思ったんですが、やはりなかなか合致するものがなくて、どうしても私、鬼房の後半生、

『瀬頭』から二つ出てしまったんですけれども、すごく重厚な俳句を作りすぎてきたプロセ

スにおいて、軽みに転じよう、しかしながら軽いとみせておきながら、やはりこの句は重厚

なんだという意図は、どこにいたっても垣間見えていました。

神野 ありがとうございます。ちょうどね、今回皆さん『瀬頭』に句を結構あげてくださって

います。この『瀬頭』は鬼房の七十歳から七十三歳頃の作品をまとめた句集なんですけ

ども、この『瀬頭』について鬼房自身、こんなことを述べています。「枯淡・円熟などの資質

を持たず、もっぱら、われとわが身の戦いのなかで、北方の血を詠みつづけて来たもの

にとって、疲労困憊は甚しい。もはや、四十代五十代に見せた活力は無い。私のような

生き残りに僅かでも詩力があるとすれば、弱者の芸文の芸文たらしめているところを手

掛りに、疲労困憊の極で、必らず見せるであろう『言霊の澄明』を捉えたい」というような

ことを言っていて、全然軽くなる気はない。けれども、重く濁ってるかというと、言霊が澄ん

で明るくなる、澄明、澄むほうには行っているという感覚ですね。さっき関さんがおっしゃ

っていた、重いのをさらに重く詠んで突き抜ける、というようなところがちょっと印象に残っ

ている言葉なんですけど、その辺も含めて、もう少し掘り下げたいなと思うんですが、関さ

ん、いかがでしょうか。

 一般論的には若い時の方が深刻そうに文学書に染まりやすくて観念的に重いもの

を作って、ある程度歳を取ってからそれがだんだんそういう世界に付き合ってられなくな

って、軽くなっちゃうというのが一般的な道筋だと思うんですが、鬼房の場合そういうパ

ターンにはまるところ、はまらないところ両方あってですね、若いときも悲惨な内容の句

がいっぱいあるんです。けれども、初期の戦場に行っている時の俳句だとか戦後すぐの

時期の本当に貧しい生活の時期の俳句だと、詠まれている内容は割と深刻に見えるも

のもあるんですが、割と平明な写実に近いような本人にはそんなに力んでいない、ただそ

こにそういう状況があるからそれを詠んでいるという淡々たるつくりで悲惨な方に詠んで

いるケースが多いんですよ割と。自分の意思でこういうふうに世界を見ているという形で

深刻さが出てくるのはそれ以降むしろ強くなっている感じで。で、そういう要素は残したま

ま『瀬頭』辺りではもうちょっと澄んだものにしたい方向に移ってきたので、軽みという枠

に入るかどうかちょっと微妙ですよね、これは。ずれるところはいっぱいある。っていうの

はですね、さっきの〈絲電話ほどの小さな春を待つ〉、この句確かに文体としては軽く見

えるんですが、ただ小さな春っていうのがちょっと文学主義的なレトリックですよ、やっぱ

り。必ずしもいい意味でない、あえて言えばくさいって言ってもいいようなレトリック。ただ

この場合はそこに〈絲電話ほどの〉っていうちょっと意外な形容がくっついてくる。〈絲電

話ほどの〉
って言われて春のあったかさを連想する人ってあんまりいないはずなんで、こ

この飛躍のところでちょっと軽くしてはあるし、俳句として詠めるものとしてある。小さな春

を待つだけはちょっとどうにもならないです。だから、小さな春の例えとして糸電話がでて

きたのはこの句の見どころなんですけど。この句の場合何が鬼房らしいかと言うと、栗林

さんが挙げたように〈除夜の鐘有難くなりそこねたる〉〈老衰で死ぬ刺青の牡丹かな〉

など、どっちも軽い方向へ行く思考は多少あるんですけれども、元々の芭蕉の時代から

イメージされている軽みからすると老いとか病とか死とか、そういう要素が入った時点で

もうほとんど軽みではないと言えそうなところがありまして、鬼房はそういう要素が非常に

多い作家なんですけど、こういう小さな春を待つの句ではっきりするのは、鬼房が幸せな

ことを詠もうとする時というのは、これだけ不幸な何か酷い貧しい生の中で小さな幸せに

大変な意思力を持ってしがみつこうという形で出てくるということですね。〈いくつもの病

掻き分けおでん食ふ〉
とかですね、単におでん食って喜んでりゃいいものをいくつもの病

掻き分けて、この力みが必ず入って小さな幸せにしがみついてやるぞという。この小さな

春を待つっていうのも、別に待っていれば春は来るんですけど、すごい意思の力あるパ

ーツでしょ、これ。だから、小さい幸せを詠んでいれば軽くなるかというと、鬼房の場合そ

れが逆にならないんですよ。神野紗希さんが挙げた〈白鳥の帰るころかとひげを剃る〉

ってこれは確かに軽みになっている。こういう句があったのを私見落としてたんで、この

辺は軽くなってますけどね。あと、さっき神野さんが言ったのでは、明らかに軽みと取って

もいいだろう句になると鬼房だか誰だかわからなくなる句がいくつかあります。『霜の聲』

か。これは『瀬頭』より後の句集ですけど、〈首こきと鳴る骨董の扇風機〉。扇風機が首

を振っている、首はこきとなるという。これは深刻なことは何もない。ただ雅な方向へ転じ

るという要素が扇風機と骨董という要素しかないとちょっと弱いかなという。それから更に

あとの『枯峠』という句集では、〈ひだまりの落葉だまりの噴井かな〉、という本当に淡

々とした写生句もある。噴き上がる井戸に日が当ってて、落葉も溜まっている。落葉が溜

まるって本当に俗そのものの軽みの素材になるような、〈木のもとに汁も膾も桜かな〉

の、桜の花が散りこむのとおなじような現象ですよね。だから、そういう詠み方をしてある

ものになると鬼房だか誰だかわからなくなってしまう。

神野 だから結果的には軽みにはならないということですよね。その老、病、死というよ

うな大きなテーマを詠まないで、小さな幸せを詠もうという俳句も鬼房にはある。けれど

も、じゃあ、どう詠むかっていったときに、やっぱり小さな春っていうレトリックを使ったり、

どっか力んじゃう。


   


    軽くなるべきか

 そうそう、小さな春に必死でしがみつくって句になる。だから病とか死とかの句を、本

当は軽みの句で扱いたくないんですけど、そういう材料が入ってきた句ほど、軽みの方

向に向かうっていう逆説的な関係ですね、鬼房の場合は。

神野 こんなに探しても軽みの句がないっていうところが、逆に鬼房の俳句を照らし出し

ているような感じがさっきからびんびんしてるんですけども。さっき関さんにあげていただ

いた、私の最後にあげた〈白鳥の帰るころかとひげを剃る〉っていう句はかなり軽みな

んじゃないかなという、三つの中では少し自信をもってもってきたものだったんですけど。

もう白鳥は帰るころかと、そんなことに想いを寄せながら自分はひげを剃っている。ひげ

を剃るというのは、毎日の男性の日常の風景ですけれども、白鳥も生きている、自分も

生きているということを、非常にさらりと、白鳥の日常と自分の日常とをこうやって並べて

いるところが、淡々としているかなとおもったんですけどね。で、ひげっていうところにちょ

っと鬼房らしさが、白鳥とひげっていう素材の出方に鬼房らしさがあるのかなあと。

 このひげの俗っぽさはまさに軽みに向いた俗っぽさでいいんじゃないかなと思いまし

たね。〈今晩は今晩は枯芒原〉になると、ちょっと象徴性が強くなって、これはもう自分

は死の世界に入り込んでるぞという句に見えるんですよ。

神野 ちょっと遠いですよね、軽みとは。

 まあ枯芒原で誰か自分と関係ない二人の人物が挨拶している句だというように見る

ことも出来ますけど、それにしては枯芒原の象徴性が強い。やはり単なる枯芒原には見

えないですよね、これは。それから関根さんがあげた〈七五三妊婦もつとも美しき〉とい

うのも、一見良い言葉ばかり、めでたい言葉ばかりでできてるんですけど、七五三という

と、大体主役が小さい子供、着飾った子供になるはずなんですよ普通は。その中でも、

敢えて鬼房はより小さな幸せを待ち望む、力を込めて待ち望むという形でまだ生まれて

いない、腹の中の子供にいっちゃうわけですよ、視線が。ここが鬼房らしいところで、めで

たいものを詠んで、その中でまだ現れていない、もっと先にある小さい幸せを、ほんとに

力を込めて?むようにして〈妊婦もつとも〉と言い出す。このとらえ方は、やっぱりめでた

いものを詠むと却って軽くならないですね、鬼房は。

神野 そうですね(笑)、めでたいものを詠んでも軽くならない鬼房。栗林さんどうですか、

この〈妊婦もつとも〉とか、なかなか軽くならない鬼房。

栗林 そうですね。深く考えると、そうですね、関さんおっしゃったとおりですね。でも、私

なんかはさらっと〈もつとも美しき〉っていうと、あーそうだなと思っちゃうんだよね。納得

しちゃうんだ。良くないですかね(笑)。

 いや別に良くないことないですよ、〈もつとも〉とか力を込めて価値判断を入れると軽

みの力抜けた平坦なっていう方向にはいかないですよね。

神野 たしかに七五三の主役は子供なんだけど、ちょっと視線をずらして、いや、妊婦が

美しいっていうふうに、みんなと同じことは言わないぞっていうところが、やっぱり鬼房な

のかなあなんて思いましたけどね。この白鳥の句なんかはいかがですか栗林さん。

栗林 はい、そうですね、私は気がつきませんでしたが、ほんとの日常の生活をね、その

まま詠んでると。〈ひげを剃る〉なんていうのは俗っぽいんですけれども、芸術的な表現

なんていうのは全く捨てて、さっと詠んでるという意味では、確かに軽い感じがしますね、

はい。

神野 あんまりね、この素材を、じゃあ鬼房が若いときにこういうふうに詠んだかっていう

と、やっぱりちょっと年齢的なものもあるのかなと想像はしましたけど。

関根 そうですね、やはりこう、今回四名の方が、三句ずつ選んだ俳句が、ほとんど老年

期というのは、今日のシンポジウムで提示された課題なのかと思います。やはり、先程か

ら松尾芭蕉が晩年になって軽みって言い出した。じゃあ年を取ると軽くなりたいのか、くた

びれちゃうのかっていう、そういうことでもないのかなって思いますね。私は初期の句集か

ら軽みの句を選択するのにはすごく先入観があった。この軽みっていうテーマは非常に

人々に先入観を持たせてしまうひとつのテーマかなと思いました。やはり、技術的なとこ

ろからも論証していかなくてはいけないし、そのユーモアとちょっと近似するやもしれぬ恐

れ、その解釈の違い、テーマとしては逆に課題を非常に突きつけられた。色々論証、再

読してみて、そういう思いに至った俳句です。〈七五三〉の句は、自分としてはすごく納得

して軽みだと思ったんですけど、やはりここにきて皆さんで論じると、やっぱり〈もつとも〉

ですね。

神野 〈もつとも〉の部分が。

関根 ええ、〈もつとも〉。この句を飛ばしていました。〈七五三〉〈妊婦〉〈美しき〉

これね、なかなかいい観点の軽みだよね、なんて思っても、やはりここに来るとその〈も

つとも〉
の指摘があるんですね。でもここに参加してくれた方も、鬼房の俳句で軽みの句

を選んでくださったなら、必ずね、一語重たいの入っているような気がします。ああ、実は

そうだね、言われてみればこれ重たい一語入っていたねっていう、そういう気付きがでそ

うな気がいたします。

神野 そうですね、さっきの〈小さな春〉〈もつとも〉。なにかどこかに鬼房ナイズされてい

る言葉があるという。なんだかひとつひとつ軽みにあてはまりそうな鬼房の句をあげては

潰していくっていう今回になってきてますけども。でもそれも、この軽みっていうテーマによ

って見えてくる鬼房像ですよね。ちょっと視点を変えて、じゃあ、現代において鬼房の俳句

が、どう受け取られるのかっていうときに軽みという補助線を引いてみると、いまの時代、

そうですね、それぞれ好みはあると思いますけど、わりと軽みの俳句って好かれてること

が多いのかなと。後藤比奈夫さんとか深見けん二さんとか、長老の軽みの俳句であると

か、若い世代だと小川軽舟さんなんか、わりと、まあいろんな俳句作ってますけれども、

日常性を志向している俳句なんかは軽みのほうにいっているのかなあと思うんですけど

も、そうしたわりと軽みが人気に見える現代俳句の中で、逆にこんなに軽みがない鬼房

が際立って見えてくるっていうこともあるんじゃないかなあと思うんですが、そのあたり関

さんいかがでしょうか。

 さっきの「高く心を悟りて俗に帰す」という言葉ですけれども、これ、別の言葉にかえ

ると、永遠の世界とか聖なる世界っていうのを想定して、神様みたいな視点からこの世の

我々の生を見ると、まあ、ごくどうでもいいような、ほんとにささいなこととかが、ほんとに

極々ありがたいことに見える。そういう視点から俗なものを捉える。それを平易に詠むっ

ていうのが軽みのひとつの理念だろうと思うんですが、鬼房の場合はその聖なる世界と

か神の視点とか、永遠性とか、そういうものを句の中に導入するのを固く拒んでた感じが

するんですよ。というか自分でそういうものを想定できなかった。超越的な怪力乱神な世

界、聖なるとか永遠とか神とか人間のスケールを超えた視点を鬼房が導入する場合は、

なんか、土蜘蛛とか土着の妖怪みたいな、そっちのほうにいっちゃってですね……

神野 むしろあえて土に立つ、っていうんですかね。人間でいる、土の上にいるっていう。

 だから永遠とか上空とか、ちょっと足が離れたところから自分の俗な世界を捉え返

すっていう視点がほとんどなかったというか、意図的に拒んでいた人なんじゃないかって

いう感じがするんです。

神野 なるほどなるほど、そうですね。だから、軽みっていうものを探そうとしても、そもそ

もの姿勢がちがうっていうことですよね。栗林さんいかがでしょうか。

栗林 そうですね、一生懸命探したんですけど、たとえば、第三句集にはお子さんを詠ん

だ句がありましてね。〈女児の手に海の小石も睡りたる〉。それから第六句集の『朝の

日』には〈淡雪のめばる可愛いやあひにゆく〉とかいう、ほんのりした、なにも重たいこ

ともいってない、言葉も優しい、雅でもなんでもないというのがあるんですね。結構若いと

きから、ときどきぽっぽと入ってきてるんですね。でも、それが探さなければわからないく

らい少ないという感じですね。そしてですね、あの、芭蕉の軽みの代表例で『炭俵』でした

か?それに出てくる、ここにはないんですが、〈海士の屋は〉、海の男ですね、女ではな

くてね。〈海士の屋は小海老にまじるいとど哉〉。いとどっていうのは竈馬とかなんかの

虫ですね。そういう、小海老にそんなのが混ざってたっていうのを、ぽっとみてそれを詠ん

でる。特に何を言おうとしてるんではないですが、実はそれに似た句がないかなと思って

探したんですけどね、結局ね、あまり似てないんですけどね、あえて似てるかなとこじつけ

れば、〈陸前のとある岩間のみなし蟹〉小っちゃな蟹を見つけたと。

神野 〈みなし蟹〉

栗林 蟹ですね、でもこれもね、単なる蟹ではなくてみなし蟹ですからね。

神野 殻しかなくなってしまっているという。

栗林 軽いかなと思って選んでも、ダメなんですね、鑑賞しようとすると重くなるんですよ

ね、そんなことで難しい宿題でした。

神野 芭蕉が晩年、重くれはやめて軽みにいったっていうことで、現代においても、どこ

か、時系列でいうと軽みがいいんだ、重くれを廃止しようという形になっていって、最終的

に軽みの俳句がいいんだ、みたいな風潮があるかなと思うんですが、年を取ると軽くなら

なきゃ、なりたい、軽くなるべきだということでもないのかなと。決して軽みの方にいかな

かった鬼房の俳句が今改めてどう見えるでしょう。

栗林 そうですね、だいたい軽みは一生懸命芭蕉が頑張ったけれども、杉風らを除いて

誰もついて行かなかったですよね。そして今軽み、何も言わないポッと物を?んで書いた

ような軽い句がいいというのはこれは現代だけの特徴なんじゃないかなという見方をすれ

ば、現代の軽い、本当に軽い何も言わない俳句がどれだけ続いていくのかなと、ちょっと

疑問ですね。また社会性俳句とか新興俳句とかそこへいくとは限らないけれども何か別

なものになっていくのじゃないかなと。で、軽みというのは一種の特定のパターンがある

わけじゃないという説が有力なんで、つまり新しいことを求めてゆくのが軽みだという説も

ありますんでね、今のようないわゆるふわふわした俳句ばかりが続くとは限らないという

気がするんですけどもね。お答えになってないかも、ごめんなさい。

神野 ありがとうございます。かなさんはどうですか。現代に鬼房を読む時に軽みと重く

れっていう線を引いてみた時に鬼房の存在感というものを感じられました?

関根 ちょっとやはり先程申し上げたんですが、かなり鬼房俳句に重厚たるものという先

入観がありすぎてしまって、一愛読者として終始してしまうんですが、重みと軽みがどうし

ても連動しないんだと思い、鬼房のその意図が見えづらくなる。意図があったから軽そう

に見えて実は重いんでしょう、っていう感じでもあるような。かなり錯綜しました。結果、あ

えて鬼房に軽みを求めることは無いのではないのかなという自分なりのエスケープのよう

な結論に達したところではありますが、やはりそこは鬼房俳句のその伝統を守るべく残さ

れた私どもがこれから検証していくことじゃないかなと思っております。以上です。


   


    
重くれから重みへ

神野 最後に少し会場にも伺ってみたいなぁと思うんですが、もし良かったら宇多喜代子

先生。鬼房俳句に軽みは無い、無い、無いという話になっていますけども、あの、逆にそ

の、いや、ちょっとあるんじゃないのでもいいし、いややっぱり無いわよね、でもいいんで

すけど。

宇多 みなさんがおっしゃる通りで出尽くしていて、私、今例えば関さんがお選びになった

三句の中から、〈骨〉〈年寄り〉〈病む〉を外したら軽みの句になる。

神野 あ、〈蝙蝠傘〉

宇多 先程からおっしゃっているのはこのことですよね。蝙蝠傘の骨が五月の砂山に立

ててあった、それだけだったらどうってことない、〈晩夏光〉とは〈脳味噌〉であるよ、それ

もちょっとした、これはそうでもないけれども〈母を騒がしておく〉というようなのは、その

ままでも軽く流れるし、実はこの軽み論っていうのも、昭和五十年ぐらいだったかしら、大

討論がありましたよね。

神野 中村草田男と山本健吉の……。

宇多 巻き込まれちゃって。森澄雄の句でもって、〈磧にて白桃剥けば水過ぎゆく〉。あ

の句が発端になって非常に角川俳句の何ヶ月か続くような一種の軽み論が展開されまし

たね。けれども、もっとも遠いところにあったのが鬼房とかでしたから、そこを今皆さんが

やろうとしてらっしゃるんですから、これはとてもしんどいわよ(笑)と思いました。でも、お

もしろかったです。このマイナーな単語ですね。単語としてマイナーのところを外すと鬼房

の句っていうのは非常に一変して逆転して面白くなりますね。老衰で死ななくてただ風呂

場で死ぬ(笑)寝ころげて死ぬ。

神野 〈刺青の牡丹かな〉

宇多 〈刺青の牡丹かな〉、ちゃんちゃら可笑しい、面白いじゃない。それが老衰とかね

こういう言葉が来るのが鬼房。何も鬼房の句に軽みをわざわざ探すことはないと思うよ。

どうして。ナンセンスだと思います。

神野 そうですね。

宇多 鬼房はこれでこそ鬼房。これでいいんじゃないかなと思うけど。年をとったら軽く

なるっていうのは、あれは妄想です。

神野 年をとったら軽くなるというのは妄想!

宇多 ですから、みんな称えるでしょう、青畝とか楸邨の年をとってからの句とか、称え

るけれども、あれ、意識しているものでもなんでもないんですね。だからみんな年をとった

らああいう風になると思うというのは違うんですよ。明日死ぬ前日まで重くれ重くれでいい

と。重い句と真面目な句っていう。坪内稔典さんが言う俳句は真面目ですよ。重くれとは

言わないんですよ。

神野 なるほど、重くれの俳句っていうとマイナスの印象ですけど、真面目な俳句。

宇多 重くれの俳句って言う言い方。ライト・ヴァースみたいなものもあるんだけども、な

かなか鬼房の話でこれをするのは、かなちゃん、難しいよね。

関根 ありがとうございました。貴重なご意見でした。

神野 あー良かったです。難しい、ナンセンスというお墨付きを頂きましたので、後でテー

マ設定者の誠一郎さんにお伝えしたいと思いますが、でも今回その難しいことをあえてや

ってみたことで、鬼房の俳句っていうのが如何に軽みをやらないようにしているのかって

いうね。

宇多 予定されていなかった面白さ。

神野 あ、予定されていなかった面白さ。

宇多 予定調和ではない面白さ。

神野 ありがとうございます。予定調和ではない面白さがあるとお褒めを頂きました。で

も今、〈骨〉〈年寄り〉〈病む〉とか〈老衰〉とか、それぞれの言葉、〈もつとも〉とか〈小さ

な春〉
っていうのもそうですけど、句のひとつひとつの語を見ていく中で、やっぱり軽みと

は判断できない、逆に言えば鬼房はなにかそこに重みを込めているわけですよね。それ

が明らかになったというのはひとつの成果ではないかと思っております。

 いいですか。

神野 はい、どうぞ。

 その重みと軽みの錯綜みたいなことが一番よく句集単位で出てくるというのはやっぱ

り『瀬頭』で、他、例句がいっぱい出てますけれど、『瀬頭』の中に軽そうな句がいっぱい

あるんですよ、実は。〈ここに穴あり春塵のマンホール〉〈縁起絵につられて笑ふ目借

時〉〈雲に乗りたしさくさくと水菜?み〉
。わりとどうでもいいこともいっぱい詠んでて、軽

みといえば軽みととれるのもあるんですけど、単独で三、四句出てきたら鬼房とわかるか

というとわからない句が多い。ただね、そういう重みと軽みの錯綜の中から出てくる独特

の味わいみたいなものがあってですね、今、社会性とか、深刻なものとかって大体あまり

詠まれないじゃないですか。そうすると今、鬼房の中に軽みの句があるかどうか探して、

ありませんでしたっていう話で終わるんじゃなくて、重くれを批判するためには、見せ掛け

ではなくてより真の重みへ向かうっていうやりかたをしていった鬼房、その中で晩年には

軽い要素も混じって錯綜していった鬼房。その作家的な営みの中から、我々は今後、社

会的に難しいものに深刻にぶちあたって詠むときにここから汲み取れる何かがあるんじ

ゃないかという見方をしたほうが生産的ではないかと。

神野 いいですね。確かに重くれっていう言葉のニュアンス自体にヤな感じがありますよ

ね。

 中身がないものを重たくみせているという。

神野 軽みではなく、重くれでもなく、重み。鬼房は重くれじゃなくって重みであると。なる

ほどなるほど。どうでしょうか、栗林さん、かなさん、まとめがあれば何かいただければと

思いますが。

栗林 やはりあの、いいまとめをしてくださって助かりました。

関根 宇多先生がすべてを語ってくれたかなと。しかしながら、誠一郎さん、またどこか

におでかけですけれども、こういったテーマを我々に突きつけてくれて逆に感謝したいか

なとも思います。非常に鬼房を検証するという、読み直すということの課題を、そういうの

ぽっと出してくださる方だと思うので。

神野 これ以上の難題があるかどうか乞うご期待という。

関根 そう、そういうことだと思います。そういうものは沢山お持ちだと思うので。軽みな

んてまだほんとに小さいものだよ位な(笑)というふうに思ってるかもしれません。以上

です。

神野 ありがとうございます。今日は軽みから重くれ、重くれから重みへということでひと

つ、鬼房俳句の再確認というか、新しい方向から鬼房にたどり着けたような気がしていま

す。難しいテーマでしたけれども、鬼房俳句の鑑賞を会場のみなさんと深めることができ

たのではないかというふうに思います。みなさんご清聴ありがとうございました。


 
○ パネリストが選んだ「軽み」の鬼房俳句三句   


  関 悦史  選

    蝙蝠傘の骨が五月の砂山に           『朝の日』

    晩夏光とは年寄の脳味噌なり           『瀬頭』

    病む母を騒がしておく夕月夜           『霜の聲』



  栗林 浩  選

    除夜の湯に有難くなりそこねたる        『瀬頭』

    老衰で死ぬ刺青の牡丹かな           『霜の聲』

    絲電話ほどの小さな春を待つ          『愛痛きまで』


  関根かな  選

    七五三妊婦もつとも美しき             『半跏坐』

    やませ来るいたちのやうにしなやかに      『瀬頭』

    いつまでもある病人の寒卵             『瀬頭』


  神野紗希  選

    今晩は今晩は枯芒原                『枯峠』

    愛鳥日八宝菜を食ひに行く            『枯峠』拾遺

    白鳥の帰るころかとひげを剃る 『愛痛きまで』





 

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