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 小熊座・月刊 
  


   2017 VOL.33  NO.389   俳句時評



      「戦争・平和」に向き合う視座について

                              武 良 竜 彦



  2017年8月号で総合誌「俳句」は「反戦特集 平和の礎となった俳句」という特集を組ん

 でいた。巻頭エッセイに深見けん二氏と関悦史氏、そして平和の礎となった名句として東日

 本編、西日本編合わせて八十八句、そして平和の一句として七人の俳人が揚げる一句と

 小文を掲載していた。その中で、関氏の「戦争の変容としての平和」は、平和を詠むことに

 付き纏う戦争に対する俳人の認識の変遷について論考している。「いわゆる伝統俳句の大

 部分には、この『戦争―平和』という一対のテーマを処理する回路が乏しかった」として、高

 浜虚子の、

   秋蟬も泣き蓑虫も泣くのみぞ

   敵といふもの今は無し秋の月

 を揚げて「このテーマもほぼ自然詠のごとく処理した」と評している。そしてこう言う。

  「冷戦後、バブル崩壊以後は、俳壇的には『平成無風』期となる。伝統回帰的で雅やかな

 作風が主流となり、『戦争―平和』というテーマは退潮した。これは単に俳壇の世代交代と

 記憶の風化が進んだというだけの話ではない。社会や観念が表現の諸ジャンルで同時に

 退潮したのである」

  そして次の二句

   コンビニのおでんが好きで星きれい    神野 紗希

   ダンススクール西日の窓に一字づつ    榮  猿丸

 を揚げてこう述べている。「もうじき終わる平成期に『戦争―平和』のテーマは、強欲資本主

 義の中で平板化した暮らしを批評する視線として秘かに復活した。戦時が間近になると、

 俳句も『伝統俳句』以外の様式を模索し始めるようだ。」

  平和を嚙みしめる俳句によって「反戦特集」とするような企画意識自身が批評されている

 ように感じる視座だ。

  今の若い俳人たちは、そんな単純な図式的お題目を信じていない。すでに、戦後日本的

 「平和」に対する受け止め方が違うのだ。平和に対して、うんざりするような気分と共に「強

 欲資本主義の中で平板化した暮らしを批評する視線」を投げているのだ。

  この二人の俳人の句や関氏の批評に覗える視座は、広く俳句界全体の共有認識とはな

 っていない。

  多くの俳人、そして大半の日本人の戦争に対する意識は第二次世界大戦までで止まっ

 たままだ。そして記憶の風化と同時に思考が退化し空洞化している。

  今考えるべき戦争は過去の大戦のことだけだろうかという問いがまず欠落している。そ

 の認識が異なれば平和に対する認識も違ってくる。

  齋藤愼爾氏は「戦争」と「平和」の「古典的概念を破砕する要がある」と述べている。総合

 誌「俳句」の「反戦特集」ではなく、同じ角川の総合誌「短歌」の同年8月号の別冊付録「緊

 急寄稿 歌人・著名人に問う なぜ戦争はなくならないのか」という特集への寄稿文におい

 てである。

  この特集には数名の俳人の寄稿もあった。その寄稿文で齋藤愼爾氏はさらにこう述べて

 いる。

  「人は自覚せず殺人者= 抑圧する側に加担していることにもなる。直接手を下さなくても

 間接的に殺人者となる」(「〈関係の絶対性〉の倫理」より)。

  戦争と言えば先の大戦、そして戦争と言えば被害者意識という次元で思考を停滞させ、

 それこそ平和の中で腐臭を放っている大半の日本人の意識に欠けているのは、「今ここで

 の戦争」、私たちの日常に潜む危機についての視座であり、抜き差しならぬ当事者意識の

 保持と感度である。

  齋藤氏は述べてはいないが、それは具体的には日本はアメリカの同盟国だから、アメリ

 カが行う空爆殺人は日本人の「私」が行っていることと同等の意味を持つ、というようなこと

 だ。齋藤氏は次の美智子皇后の短歌を引いている。

  知らずしてわれも撃ちしや春闌くる バーミアンの野に仏在さず

  殆どの日本人が、仏像が破壊され崩れ落ちたというニュース以上のことをそこに読み取

 らなかった中で、「われも撃ちしや」と抜き差しならぬ当事者意識でそれを詠む皇后の歌人

 意識には驚きもする。齋藤氏はそれをこう述べる。

  「皇后の歌の前に、いまの歌人たちの歌は、恥辱のあまり崩落するであろう」と。

  この「短歌」別冊特集で文芸評論家の川村湊氏は「戦争の想像力が劣化している」と題し

 てこう書いている。「七十年間の『平和』が、憲法九条によって守られたわけではない。戦争

 に対するリアルな体験や記憶、そして悲惨さ、残酷さについての痛切な想像力こそが、『戦

 争』を回避させてきたのだ。それが今では劣化し、好戦的な戦争表象が、文学、映像、ゲ

 ームの世界で繰り広げられている。」

  もちろん、そのことも大問題だが、そういう解り易い現象よりも、もっと繊細な問題で、もう

 一つ今の日本人に欠落しているのは、概念や言葉の単純化に対する違和感である。日常

 生活語のレベルでも、文学的な表現言語の中でも、言葉がやせ細り実体を無くし、スロー

 ガン化している現状こそが「今の戦争」だという視座が欠落しているのだ。

  この別冊特集で歌人の米川千嘉子氏はこう述べている。「本来、文学の言葉は、一通り

 の明快な意味に集約されるスローガンや状況論が届かないところの、人間についての深

 い発見のためのものである。それは直接、世界の状況を変化させる力にはならないが、さ

 まざまな判断や忍耐を要求される個々の人間を深いところで支えることがある。『どうして

 戦争がなくならないか』というテーマに応える術を持たないが、その問いに関わって歌人が

 できることの小さな小さな、唯一のことがあるとすれば、実作者としても鑑賞者としても、希

 望と絶望の両方に振れる人間の実相を深くじっくりと発見し認識しようとすることではない

 か。」(「人間の発見」より)

  四六時中、「精神総スローガン化」の攻撃を私たちに仕掛けているのが「今の戦争」であ

 る。「人間の実相を深くじっくりと発見し認識しようとする」表現者としての意識を以て、常在

 戦場のつもりで表現に赴く意識が保たれているかが問われているのだ。平穏な日常を詠

 むことを以て反戦とする平和願望は、怠惰な精神の妄想にしか見えない。





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