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 小熊座・月刊 
  


   2018 VOL.34  NO.394   俳句時評



      忘却を拒絶する能的憑依詠を

                              武 良 竜 彦



  俳句総合誌「俳句」は去年の三月号で、死者を「悼む」という特集を掲載していた。その

 中には過去の戦争や災害の死者、東日本大震災の死者も対象となる。

  「悼む」という表現は一見、死者の為の表現のように見えるが、その内実は、その死者を

 失った生者側の喪失感による心の空洞を埋めようとする表現や、その状況を生じさせた原

 因に対する怒り、抗議の表現となることが多い。

  多くは「悼む」表現が、生者側の心の「癒し」を目的とする傾向がある。それは「悼む」とい

 う「鎮魂の祭」の後、忘却の果てに、死者を打ち棄てることに繋がらないか。

  かつて私は大震災直後、「小熊座集作品鑑賞」を担当していたとき、当該月の評文の前

 段で、「喪の仕事( モーニングワーク) は終わらない」と題して次のように書いた。

   ※  ※

  「喪の仕事」とは、愛する者との死別を悲しみ、混乱し、やがてそれを受け入れて静かに

 諦めていく過程をいう心理学用語です。この過程がしっかり行われないと病的な悲嘆に陥

 ってしまうと考えられています。

  1 感情麻痺の時期   衝撃・否認

  2 思慕と探索の時期  悲しみ・探索行動

  3 混乱と絶望の時期  怒り・恨み

  4 脱愛着と再起の時期 諦め・受け入れ

  この「喪」には死別だけではなく例えば大震災による広い意味での様々な「喪失」体験す

 べてが含まれます。心理学が学問であり、研究分析をしている分には、この言葉たちに違

 和感はない。しかしこれが医療行為に応用されて、「治療」を目的とするとき違和感が発生

 します。

  問題は「4」の「脱愛着と再起の時期 諦め・受け入れ」という定義。文芸行為に携わる側

 の感性から言えば、人はみな一様に悲しみを「諦め・受け入れ」たりするものだろうかという

 違和感を持ってしまいます。(略)

  悲しみや喪失感は、癒されることを前提としなければならないのか? それらの思いは、

 諦め、受け入れることを最終到達地点としなければならないのか? 喪失感と深い悲しみ

 も、施設や設備が「復旧復興」するのと同じように、恢復しなければならないのか?(後略)

   ※  ※

  遺族の中には死者の忘却を拒絶して「悼む」ことを拒否する人がいる。「癒される」ことす

 ら拒む人がいる。

  忘却を拒み続ける遺族の心と、その実相に、文学は立ち合い続ける必要があるのでは

 ないか。東日本大震災を体験した私たちにとって最も大切な事は、遺された生者側の癒

 されない巨大な喪失感の内実に分け入り、その核心部分に佇み続ける死者に寄り添い、

 それを言葉によって可視化する文学的営為ではないか。

  だが、どうやって?

  日本には能という幽玄の芸能、死者を忘れまいとする劇空間を出現させて見せる稀有の

 芸能がある。

  主に旅の僧侶役である「ワキ」が通りかかった場所で、二役を演じる「シテ」によって幽玄

 体験をするという構成になっている。「ワキ」の前に現れる「シテ」によって、その地はある人

 が強い思いを残して亡くなった場所であることを告げられる。その後、天候が急変して「ワ

 キ」は先に進めなくなり、そこで一夜を明かすことになる。そこに再び「シテ」が現れ、先に

 語った話の霊が憑依して、( あるいは霊自身が現れてと言ってもいいが) 思いを語り舞う

 という芸能である。ここに日本的な死者への寄り添い方の典型がある。

  東日本大震災後、東北の各地に発生した「幽霊譚」にも、この能と通底する日本的な精

 神性がみられる。大学の社会学部のチームによる現地調査によると、死者の遺族知人で

 はなく、タクシーの運転手の体験談が最も多かったという。幽霊体験をする人が能では旅

 の僧侶であり、東日本大震災ではタクシーの運転手という、通りすがりの第三者である点

 に類似性がある。つまり個人的な喪失感に基づく幻視体験ではなく、災害などの犠牲にな

 った者を、みんなで覚えておいてやらなければならない、忘れてしまってはいけないという

 ふうに精神を働かせる共同幻想の在り方の典型だとも言えるだろう。これはもう文学では

 ないか。

  この精神の在り方を「憑依」と仮に呼んでおこう。

  小説ではいち早く、いとうせいこう氏が 『想像ラジオ』 (河出書房新社二〇一三年刊)とい

 う小説で死者を主人公にした小説を書いている。津波に流されて高い杉の木の上に引っ

 かかったままになっている死者「DJアーク」がラジオ放送をして、それを聞くリスナーたちも

 皆、死者(自分が死者である自覚さえない)。そのラジオ放送は一部の生きている人間にも

 聞こえている。つまり死者の声が生者の耳に聞こえるという形の憑依だ。死者と生者の交

 錯によって死者たちは自分が死者であることを自覚し受容する。

  「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそう

  だ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれ

  だけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、

  同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」

  「生き残った人の思い出もまた、死者がいなければ成立しない。だって誰も亡くなっていな

  ければ、あの人が今生きていればなあなんて思わないわけで。つまり生者と死者は持ち

  つ持たれつなんだよ。決して一方的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふ

  たつでひとつなんだ」


  ここにあるのは忘却を拒む憑依的文学的主題である。

  では俳句ではどんな憑依詠が可能だろうか。例えば、


   サンダルをさがすたましひ名取川         高柳 克弘

   また死者の手による雪の朝となる        浪山 克彦

   靴を鳴らして魂帰れ春野道            高野ムツオ



 などには可能性がある。俳句ではこれが限界だろうか。この先にまだまだ啓ける憑依詠の

 地平があるのではないか。





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