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 小熊座・月刊 
 


   鬼房の秀作を読む (92)      2018.vol.34 no.396



         柘植の櫛嗅いでは母をたしかめる       鬼房

                                    『枯 峠』(平成十年刊)


  幼年記五句と前書きされた連作の一句である。『枯峠』は、平成十年、鬼房が八十歳の

 時、上梓された。

  幼年記五句からは、母親が仕事に疲れ切って帰宅し、子供たちの相手をする暇もなく、

 家事に向かう様子が伺える。しかし、その寂しさから少年が母親を恋しく思って、櫛�を手に

 したとは単純に思えない。

  柘植の櫛は、美しい髪を保つため、古来より女性に愛用されてきた。乾いた布に椿油な

 どを染み込ませて櫛を拭き、油を補給する。手入れをしているうちに、独特の飴色となって

 いくそうだ。

  母親を「たしかめる」としたのは、なぜだろうか。鬼房の父親は、三十を前にして亡くなっ

 ている。五歳であった少年は、肉親の生が確実ではないことを知り、不安を抱えたであろ

 う。鏡台に置かれた艶やかな柘植の櫛は、母親の生命力そのものとして、少年の心の視

 野の端に、いつも意識されていたのではないだろうか。柘植の櫛の存在を確かめる行為は

 少年を安らかにさせたに違いない。晩年となり、柘植の櫛の匂いから、その不安と安らぎを

 思い出した句にも思える。

  『枯峠』は、〈観念の死を見届けよ青氷湖〉で締め括られている。鬼房は、青氷湖のような

 強く深い眼差しで、生のなかにある死を見届けたのだと思う。

                                         (小田島 渚「銀漢」)



  五感の中で一番リアルなのは嗅覚だと私は思っている。明治生まれの姑が他界して十年

 になるが、最期まで枕元に置かれてあったのが椿油と柘植の櫛�、手鏡の入った菓子箱だ

 った。後日遺品整理の際、棺に納めたつもりの件の菓子箱が出てきた。蓋を開けた瞬間、

 椿油の匂いが鼻孔を突いた。「年を取ると汚くなる」が口癖だった姑。妥協を許さず筋金入

 りの明治の女だった姑。姑と暮らした三十五年が椿油とともに一挙に甦ってきた。

  掲句、平成十年第十二句集『枯峠』の一句。前書に幼年記五句とある。年譜によると、大

 正十四年二月父善太郎死亡、同年四月弟勇が生まれている。鬼房六歳の頃である。母ト

 キエの愛情が生まれて間もない弟に注がれるのは当然としても、まだ母にかまってもらい

 たい年齢である。纏わりつきたい気持を堪えて母愛用の柘植の櫛の手触りを確かめ、更

 にその匂いを嗅ぐ。いじらしさとそして艶めかしい。男の子は母親を、女の子は父親を最初

 の異性として意識するようだが、鬼房もまたその例に洩れず母を異性として見ていたのだ

 ろうか。そう思わせる程「嗅ぐ」行為が生々しいのだ。記憶の底に漂う母の思い。いきなり

 この句が色を帯び強烈な匂いを放ち立ち上がってきたのだった。

                                              (髙橋 彩子)





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