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 小熊座・月刊 
  


   2018 VOL.34  NO.400   俳句時評



      俳句作品はどう評価できるのか②

                              武 良 竜 彦



  前回、俳句総合誌「俳句界」五月号の特集「現代評論の問題点」に触れて、大輪氏の次

 の言葉を紹介した。

 「まず評論は研究を踏まえたものでないといけない。(略)そしてその論に価値観が

 入ってこなければいけない。(略)そうすると今度は評価の難しさが出てくる。(略)だ

 から評論は難しいんです」


  評論文に価値観が入ることが、難しさの原因だという認識の言葉である。このときの「価

 値観」は自分だけの思い込みではなく、客観性を持った「価値観」でなければならない。そ

 のことに困難さの主因がある。

  では万人が認める客観的条件とは何なのか。第一に、客観的な「価値基準」を示すこと

 が条件になるだろう。そうすることで、価値判定方法の是非を判定する条件が読者に示さ

 れることになる。その上での批評なら個人的な思い込みと批判されることはないだろう。ち

 なみに私は俳句評論を汎文学論としても通用する文学論として書くことを心掛けている。

 作品に対する個人的な印象批評や、表現上の技術論が語られる傾向に傾きがちな現俳

 句界の評論に、批判意識があるからだ。自分に課している条件は次の通り。

①俳句批評は文学論的な表現方法論でなければならない。

②評者の中に確固とした作品評価理論がなければならない。

③作品の文学的主題を軸とした表現の可能性、すなわち文学的価値の評価でなけれ

ばならない。


  作者が独自の「文学的主題」を表現しようとしている意思があるか、それが達成されてい

 るか、達成しそこなっていても、その方向性の萌芽が立証できるか、という「価値基準」で書

 くことを心掛けている。

  そもそも芸術作品を批評するということはどういうことか、哲学的論考の分野でその問題

 に取り組んだものがある。それは『批評について 芸術批評の哲学』というノエル・キャロル

 著(森功次訳 勁草書房)の論考である。

  恣意的な読みはなぜ悪いのか。

  作者の意図は批評にどう関わるのか。

  客観的な批評を行うにはどのような作業が必要なのか。


  分析美学の泰斗であり映像批評家としても活躍するキャロルが、批評の哲学の最前線

 から突きつける挑戦的な批評論と評価されている本である。批評を巡る様々な論争を解

 きほぐしながら批評の本質を突き止めていく内容の本だ。

  古代ギリシャから中世、ルネサンスと近代、そして現代の芸術概念を引用し、フラ・アンジ

 ェリコからカントの天才論、芸術と記号論、アートワールドから芸術社会論といった領域に

 切り込みながら、ポスト・モダン理論をさらに超えようとする批評論が展開されている。特に

 批評の六要素とするもののうちの、「記述」「解明」「解釈」を軸に語る映画論は、キャロル

 の映画理論の要となっている。

  ノエル・キャロルは、批評論の世界的傾向であるバルトの「作者の死」、ダントーの「アート

 ワールド」以降、作者の意図に言及したり、作品を価値づけたりすることが忌避されてきた

 ポスト・モダン的な批評観に対して、旧来からの「理由に基づく価値づけ」を擁護している。

  「作者の意図に基づく批評」や「カテゴリー分け」といった、ポスト・モダンでは批判(忌避)

 されてきたような批評こそが批評であると主張している。特に、本書をもっとも特徴づけて

 いる第四章の「価値づけ」で、カントとヒューム、ハチスンら経験論者たちと人間本性、快と

 美、主体と客体、美と対象という芸術思想史の重要トピックに触れて持論を展開している。

  本書は芸術全般についての、その価値の見極め方と批評の在り方について書いた本で

 文学書は対象になっていない。しかし俳句という「芸術」に携わる者たちにとって、俳句作

 品を、客観的に批評しようとするときの、理論的支柱を与えてくれる。それは芸術批評を芸

 術作品の何らかの「理由に基づく価値づけ」と定義している視座だ。

  芸術作品の価値を、作家がその作品によって「達成したこと」を、その作品が属す諸ジャ

 ンルと諸カテゴリーに照合することによって解明する。これは私が述べた「作者が独自の

 『文学的主題』を表現しようとしている意思があるか、それが達成されているか、達成しそこ

 なっていても、その方向性の萌芽が立証できるか」と同じではないか。

  そこで、何をどのように達成したのかを確かめるには、制作にあたって作家が掲げた、

 「意図と目的」を次の六つの要素で把握する必要があるという。

 「記述」=何をどう描かれているか。

 「分類」=ジャンル・カテゴリーへの分類。

 「文脈づけ」=作品の「環境」を記述する。

 「解明」象徴記号の意味を解明する。

 「解釈」=「主題・物語・行為」の意義を探る。

 「分析」=作品の「機能」を説明する。


  以上をもって批評すなわち、「価値づけ」という「定義」の内容であるとしている。そしてこ

 の視点に立って、批評とは主観の押しつけではなく、芸術作品との対話に基づいて、芸術

 家がその作品に込めた意図を客観的に理解する過程の一部であると主張している。

  キャロルのこの「批評は理由にもとづいた価値づけ」であるという主張は、私たちにとって

 は一見、自明のことのように感じられるが、現実はそうではないらしい。

  現代の専門職的な批評家たちは、そのような「価値づけ」としての批評をむしろ忌避し、

 キャロルが「補助的なもの」とみなす「記述、分類、解釈、分析」を批評の主眼とみなしてき

 たという。それに対してキャロルの「批評=理由にもとづいた価値づけ」を前提とする六

 つの要素による証明の手続きには説得力がある。俳句評論者はもちろんのこと、俳句の

 創作者も、俳句という「芸術」がどのような「価値」を持つものであるかということを、理論的

 に把握できることは有意義である。個人的な感想ではない、客観的な俳句作品批評をする

 上でも、一読の価値のある書物である。

  では例として、次の俳句について「理由にもとづいた価値づけ」をするとしたら、どのよう

 に客観的な批評ができるか、具体的に論じてみよう。(私・試案例は次号で)

    黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ        林田紀音夫





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