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 小熊座・月刊  


   2019 VOL.35  NO.414   俳句時評



      震災後俳句の可能性――文明禍の視座へ

                              武 良 竜 彦



  東日本大震災のような、厖大な人々の死などを含む凄絶な喪失体験と文学の関係は、

 たとえば次のような詩人の言葉を代表する視座が、文学界では共有されているはずだ。

     ※

 (略)おそらく、私たちはいつでもカタストロフ前夜を生きているのだ、と言いきっても、決し

 て大げさな物言いにはならないだろう。実際の所、現在、カタストロフはあらゆるところで起

 きているのだし、日本での自然災害の前夜でなければ、革命前夜になることもあるし、暴

 動前夜であるのかもしれない。唯一の違いは、カタストロフの後では、必ず、「カタストロフ

 の後に何を書き得るのか、書くことが可能なのか」と問われるのに対し(その問いは勿論正

 当な問いであるし、あらゆる書き手が自分に問いかけることでもある)、「カタストロフの前

 に何を書き得るのか、書くことが可能なのか」という問いは殆どなされない、ということだ。

  しかし、私たちは、カタストロフ後か、カタストロフの前夜かのどちらかを常に生きている

 のだし、そのような状況を生きているからこそ、私たちは絶えずそのテーマにとらわれ、ま

 さにカタストロフ前夜に、その前夜か、その後の世界かについて書くことになるのだ。その

 意味では、先に挙げた二つの問いは等しく問われるべきだと思う。そして、今回、東日本大

 震災によって新しく付け加えられた問い、すなわち、「終わらないカタストロフのさなかに何

 を書き得るのか、私たちはそもそもどのように生き得るのか」という問いも、この先もまた

 同様に問われていくべきではないだろうか。 (関口涼子 「これは偶然ではない」=「現代

 詩手帖」2011年5月号「特集 東日本大震災と向き合うために」から)

     ※

  文学の存在意義の一端に触れる論考である。

  前回まで、この俳句時評の連載で、「八年目の震災詠考」と題して震災詠の総括を試み

 た。震災体験から自分独自のどんな文学主題を掴みだして、表現されていたかということ

 を主眼に振り返ったつもりである。そうすることに意義があると思ったからである。

  だが、こうして振り返ってみると、関口涼子氏が指摘するように、更に見えてくる課題があ

 ることに気づかされる。

  実はその検証の方がむしろ大切であったということに。

  東日本大震災という体験は、この災害列島によくある自然災害の一つであったと括ってし

 まえない、これまでとは異質なものが含まれていた。それは原発事故禍に象徴されるもの

 ごとだ。であるならば、俳句という表現において、自然災害にだけしか視野に入っていない

 震災詠では不十分であったのではないか、ということだ。

  それは何か。答えは見えているはずだ。

  文明禍というものだ。ここで最も重要なことは、それが原発禍だけを指すような狭義の文

 明禍という意味ではない、ということでもある。

  例えば、もう大半の日本人が忘れかけているかもしれないが、普段、当然のようにあって

 正常に機能としている現代のインフラが、広域に亘って機能不全になり、その複雑化、不

 自然なほどの便利さ故の、生存の危機、死者まで出した恐怖という、あの体験の根本的な

 問題の底に横たわっているのが文明禍というものである。

  この場合、インフラをそのようなものに造り上げて来たのが私達自身であるという意味に

 おいて、私達自身が加害者でもあり、被害者でもあるという二重性を負うところに、この人

 工的な禍の文明論的複雑さがある。

  つまり、加害者と被害者が自分の存在様式の中にある、という意味で、原発事故禍を

 含む東日本大震災体験は、原爆被害を含む戦争体験、水俣病に象徴される公害などと同

 質の、現代的な深い闇を抱えた文明禍の体験であったということだ。だから震災詠問題

 を考えるとき、自然災害の面だけにおける、壮絶な喪失体験の表現に取り組むだけでは、

 真の震災詠の総括にはならないということだ。それは同時に、原発事故禍が表現の視野

 に入っていたとしても、その被害側の視点だけによる主観表現だけでは、文学的には価値

 を持ち得ないし、その視座による俳句表現は少ない。 震災詠を振り返った後、では私た

 ちはこれから何をなし得るのか、と問わなければならない。

  この視座に立って、「八年目の震災詠考」シリーズで、私が「震災詠」として評価した作品

 の作者に、この震災後問題の視点から、僭越ながら以下の提言をしておきたい。

  例えば、永瀬十悟氏の『橋朧』『三日月湖』は、文明禍としての原発事故禍によく迫り得た

 作品であると思う。だが、作者の立ち位置が被害側であり、私たち自身の加害性への視座

 はなかったということが見えてくる。永瀬十悟氏自身がそれは自覚しているはずであり、ど

 こまでこの文明の渦中にある、被害・加害の両義性を含む、自分自身の精神的な「疵」とし

 て表現できるかということが、これからの課題となってゆくだろうという提言をしておきたい。

  照井翠氏の『龍宮』と『釜石の風』は、非被災者たちの表層的な眼差しを超克する、被災

 当事者としての壮絶な喪失体験の造形表現が行われている。だが作者の視座が、文明論

 的視座の中に置き直されなければ、「震災後俳句」の可能性の扉は開けないということだ。

 照井翠氏自身にもそのことは自覚されていよう。原発事故禍も含む文明禍的な主題へと、

 さらに深められてゆくことを期待したい。

  高野ムツオ氏の震災詠の総括は、誰かが行うべきものだった。その意味でこの『語りつ

 ぐいのちの俳句』は評価できる。だが震災体験が詠まれた結果としての作品の評だけでは

 なく、詠まれるべきであったが、まだ詠まれずにいる深い主題についての言及があってこそ

 の、震災詠の総括ではないかという提言をしておきたい。高野ムツオ氏にはその自覚があ

 り、氏の「車にも仰臥という死春の月」という句にはその一端が覗える。副題「3.11 以後

 のまなざし」と、真に呼び得る更なる論考の深まりを期待したい。

  私たちのこれからの課題は、文明論的「震災後の俳句の可能性」についての、粘り強い

 探求ではないだろうか。




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