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 小熊座・月刊  


   2019 VOL.35  NO.415   俳句時評



      AIは前衛俳句の夢を見るか

                              武 良 竜 彦



  2019年6月2日の朝日新聞日曜版の「うたをよむ」というコラムに、後藤章氏が「俳句と

 AI」という評文を寄せていた。その全文を次に転載する。 

      ※

   梅雨晴やところ〴〵に蟻の道     子規

  近代俳句上の出来事とAI俳句の成長には、興味深い符合を見いだせる。

  子規の俳句有限説がその一つ。日本語の音数と17音の順列組み合わせから俳句総数

 は有限と彼はいった。ざっと計算すると100音の17乗となる。AI側はこの膨大な句数から

 意味ある俳句を抜きだすことができると考えた。だが時間が掛かりすぎることが分かった。

 次に、品詞別の組み合わせを考え、俳句類型を学習して作らせた。これは、藤田湘子が

 『20週俳句入門』で示した手法と同じだ。初心者に四つの型で俳句を作らせるのである。こ

 の本は今も読み継がれている。

  では、現在はと見ると、さしずめ第二の「第二芸術」論争直前であろうか。桑原武夫は、

 玄人俳人の句に素人の句を混ぜて実験した結果、作者の名前が無ければ良句の判別が

 できないとして、俳句は 「第二芸術」だといった。今、俳句賞にAIが応募してきても、恐らく

 人は違いを判別できない。それほど、より人間の脳に近い手法の「深層学習」法による物

 まねの作句精度は上がっている。

  しかし、精度は上がっても、AIの俳句作りの発想はこれらの符合が示すように人間と変

 わらない。つまりAIは、人の考えの限界を超えられない。とすれば、新しい道を見つけてい

 ない以上、AI俳句は当分この先には行けないと見ていい。人間も含め過去の学習だけで

 は、その先には行けない事を、AIが逆に示しているのだ。

  多種な俳句の在り様を背景にブレークスルーするのは、人間なのだ。

      ※

  水俣で思春期までを過ごした私は、水俣病加害企業と、行政から一般市民までが、でた

 らめな言葉と態度で水俣病被害者たちを苦しめるようすを見て育った。世界が内容空疎で

 無意味な言葉で出来ていることを早々に学んでしまったのだった。大学時代、すでに評価

 されていた学生俳人の高野ムツオ氏から、現代俳句作品の数々を教えられた。言葉に対

 する根深い不信感を抱えていた私は、その中の僅かな俳句にしか感銘を受けなかった。

 その中に、言葉の無意味さを言葉で表現した加藤郁也の前衛俳句があった。

   行くさにいくどのみちアンスなうらぽら    郁也

   古池やにとんだ蛙で蜘蛛るTELかな     〃

  句集『牧歌メロン』の言葉たちは単語、文字単位に解体され、通常の意味文脈からも疎

 外されて結合されることで、言葉の無意味さを苛烈に笑い飛ばしているように、私には感じ

 られたのだった。そんな捩れた癒し効果があった。

  今や、そんなナンセンスな俳句なら、AIが簡単に作り出せる時代になった。AIに何も学習

 させないと、575音の無意味な俳句は簡単に作りだせる。そこで俳句らしい 「意味の通っ

 た」ものを作らせるために、既存の俳句データを読み込ませると、少しはましな俳句らしい

 俳句になるというわけだ。伝統俳句的俳句や前衛俳句的俳句さえもAIは模倣できるが、AI

 が過去のデータに頼る限り、後藤章氏が指摘するように人間を超えられない。今のところ

 は…という条件付きで。

  だが、もっとも大切な論点は、AI俳句が人間を超えられない重要な理由は、AIには、

 その作句の出発点に人間性への無関心がある
ということではないか。

  AIは自己表現という創作に向かう情動抜きで、ただデータ操作をしているだけである。つ

 まり、表現に向かう動機が欠けている。作者にも理由が定かではない、何かを表現したい

 という自己表出に向かう熱い欲求、情動という起点が欠落している。そのことに論及しない

 AI俳句論議は無意味である。逆に言えば表現に向かう人間のそんな訳の分らない情動の

 在り方の中にしか、AIには詠めない、人間らしい俳句を創造する可能性はないということに

 なるのではないか。では、その情動の正体とはなんだろう。

  その情動の一つ、怒りについて考えてみよう。怒りは太古には神のものだった。旧約聖

 書では人間の堕落に怒った神が、洪水を起こしてノア一家と動物たちを除いて人間を滅ぼ

 した(ノアの方舟)。日本でも古事記などに出てくる神は激しく怒っている(須佐之男命の例

 など)。日本人が神を祀ったのは敬いの心からではなく、神の怒りを鎮めるためだった。そ

 の魂鎮めの祝詞に、文学的表現の始原が求められそうだ。フランス革命や米独立戦争な

 どは民衆の怒りが発火点になり、社会変革の駆動力になった。日本の一揆は民衆の怒り

 の表現だろう。江戸時代に武士がサラリーマン化すると、私的怒りや暴力は秩序を乱すも

 のとして排除する意識が強くなったようだ。明治時代以降、昭和の大敗戦に至る歴史には

 政治が民衆の敵国への短絡的な怒りを悪用して(唆して)、戦争に突き進んだという怒りの

 発露の仕方における錯誤、瑕疵が存在する。

  戦後、そのことを批判する社会運動的な怒りが一時燃え盛ったが、昭和と共に鎮火し、

 平成になると消滅した。

  今は怒れない時代だという。グローバル化の進む社会では、その経済的要請による世界

 的潮流の中で、物流の自由さに反比例して、個としての人間の自由が急速に狭められてき

 た。そんな社会に飼いならされてゆく精神は、怒りに象徴される人間的で根源的な情動す

 ら喪失しつつある。そこでは言語表現も飼いならされ平準化してゆくのだ。

  「人間を人間たらしめている大切なものを失う。その一つが怒りであり、怒りの対象

 に自ら挑む意志である」
 (テファン・エセル『怒れ!憤れ!』日経BP・村井章子訳)

  先に引いた加藤郁也の難解俳句であっても、前衛的表現に挑む者には、自分でも何か

 解らない、測り知れないほどの創造的情念が潜在していたはずだ。

   怒りこそ地の塩なれや赤のまま        竜彦

  この句は、次の句のデータ操作型の限界模倣句である。

   勇気こそ地の塩なれや梅真白     草田男




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