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 小熊座・月刊


   2020 VOL.36  NO.423   俳句時評



      「10年目の原爆俳句」考 ①序

                              樫 本 由 貴



  1955年に刊行された『長崎』という句集がある。編集は句集長崎刊行委員会、発行所

 は平和教育研究集会事務局だ。これは、同時期に刊行された句集『広島』(句集広島刊行

 会編・近藤書店発行)とともに、初めて纏まったアンソロジー形式の〝原爆句集〟である。

  『長崎』について詳述する前に、長崎・浦上の被爆について説明する必要がある。

  1945年8月6日に広島への原爆投下を行ったアメリカ軍は、次の原爆投下の第一目標

 地点を福岡の小倉に定めていた。だが、9日当日、小倉上空には雲がかかっており、視

 界不良のために投下は断念され、爆撃機は第二目標の長崎に向かった。午前10時50

 分頃には、長崎上空にも雲がかかっており、目標の市街地は完全には視認できなかった

 が、雲が切れた一瞬に、それは投下された。「ファットマン」と名付けられた原子爆弾は、

 午前一一時二分、市街地を北に三キロほど逸れた浦上地区上空で炸裂した。浦上地区

 が盆地だったため、この地区以外の被害は、浦上と比べると軽微といえた。

  この被爆した浦上地区は江戸時代からのキリシタンの居住区として、長きにわたる宗教

 弾圧の歴史を持つ。1945年当時も、この地区は周辺地域からの被差別区域であった。

 浦上の教徒たちの信仰の中心だった教会・浦上天主堂の上で炸裂した原爆と人々の被爆

 は、大きな意味を持った。彼らはその長い宗教弾圧に加えて、被爆者差別に晒されるこ

 とになったのである。それまでの宗教弾圧を「浦上○番崩れ」と呼んできた信徒たちは、原

 爆投下による被害をそれに加わるものとして「浦上五番崩れ」と呼んだ(長崎総合科学大

 学平和文化研究所編『新版 ナガサキ―1945年8月9日』岩波ジュニア新書・1995)。

  宗教差別と被爆者差別の二重差別、そして原爆の被害そのものに苦しむ信徒たちへ、

 自らも被爆し妻を亡くしたカトリックの永井隆は、原爆は神による御摂理であり、戦争を終

 わらせるために必要な羔として浦上の人々が選ばれたのだという旨の言葉を残した。この

 言説は、詩人の山田かんによって発言の直後から批判されている。1980年代には高橋

 眞司によって批判的に「浦上燔祭説」と名付けられた。

  さて、西東三鬼の「有名なる街」連作に 〈 広島や卵食ふ時口ひらく 〉 がある ( 『 三鬼百

 句 』 現代俳句社・1948)。この原句は 〈 広島や物を食ふ時開く 〉 であり、1947年5月

 の 『 俳句人 』 に掲載された。この句は、 「 広島 」 をキーワードとして用い、広島の被爆

 を知る人々へそのイメージを踏まえた句の読みを促した。人類が初めて経験した原爆の、

 その被害地であった 「 ヒロシマ 」 は、たった二年の間に驚くべき速度で人々に受容され

 たということが分かる。では、「 長崎 」 「 浦上 」 は?

  現在、歳時記に立項される 「 原爆忌 」 には 「 広島忌 」 「 長崎忌 」 が併記されること

 が多い。しかし、そう書かれたとき、ナガサキはヒロシマとどう違うのか。被爆当時、 「 原

 爆は長崎ではなく浦上に落ちた 」 とまで言われた 「 浦上 」 の抱える歴史はどう書かれ、

 読まれたのか。例えば、「 怒りの広島、祈りの長崎 」 という二つの土地を対象的に並べ

 たフレーズを聞き知っていれば 「 長崎はキリスト教に縁がありそうだ 」 と感じる向きも勿

 論あるだろう。そのイメージのまま長崎を祈りの地として俳句にすることも出来るが、「 祈

 り 」 の土地と呼ばれることで激烈な感情を抑え込まれた人々はいなかったのか。

  私の時評担当回では、被爆10年を記念して編まれた句集 『 長崎 』 とその周辺資料を

 手掛かりに、俳句による被爆地長崎・浦上のイメージ形成の過程と句の実際を述べたい。

 これは、来年に発生から10年を迎える東日本大震災の表象を考える一助になるはずだ。

 『 長崎 』 には、被爆から10年の時を過ごし、それぞれの見つめ方で原爆俳句に取り組ん

 だ実作者たちがいる。彼らは、固められていくナガサキのイメージへの抵抗、被爆の記憶

 から遠ざかる自分自身や世間、10年後の自分が向き合う 「 今 」 の問題を俳句にした。

 こうした視野は句集 『 広島 』 との差別化のために 『 長崎 』 が独自に企画した構成によ

 って得られたものだ。時評では、折に触れて原爆句集を世に示す編集委員の振る舞いに

 ついても述べることとする。

  しばしのお付き合いを願いたい。

  序となる今回は前置きが長くなったが、『 長崎 』 の概略を述べておく。編集委員の中心

 は長崎で活動していた柳原天風子と、当時まだ若かった隈治人や八反田宏だった。句集

 は、『 広島 』 が掲載俳人の有名・無名にかかわらず50音順の配列にしたのに対し、『 長

 崎 』 は第一部 「 戦前の長崎」 、第二部 「 被爆時の長崎 」 、第三部 「 戦後の長崎 」、第

 四部 「 原爆体験記 」 (散文)と四部構成をとった。人の配列は無作為で、規則性はない。

 部立てからわかるように、『 長崎 』 の関心は被爆直後を書いた句だけではなかった。これ

 は、『 広島 』 『 長崎 』 刊行後に 『 俳句研究 』 に書評を寄せた赤城さかえが 「 被爆直後

 を書いた句が少ない 」 と不満を漏らす形で言及するところだ。だが、『 長崎 』 の 「 後記 」

 で、天風子は 「 第三部戦后の長崎は戦后の日本なのであり、吾々が心血を注いだのは

 実にこの第三部であつた 」 と述べている。被爆直後ではなく、それ以後の句を集めること

 が、『 長崎 』 の目的でもあったのである。

  ここで 『 長崎 』 は原爆表象における一つの問いを投げかけてくる。原爆俳句とは、一体

 いつ、何を詠んだ句なのか、ということだ。まず戦前を原爆句集に包含することで、戦争に

 よって壊された長崎・浦上の土地を実作者にも、読者にも想起させる。そして、原爆投下

 後、焦土と化した場所で生き、場所を蘇らせていく人々の営みを俳句によって表現する。

 限定的な時間の取り方をしないことで、1955年当時も現在進行形で原爆の影響下に生

 きている自分たちを表現することに成功しているのである。このような試みは 『 長崎 』 だ

 けのものではなかった。長崎の被爆俳人である松尾あつゆきは自身の句集 『 原爆句抄 』

 (私家版・1972)で、妻と三児を失った1945年以後、佐世保を離れての生活や、また長

 崎に帰ってきたときの句も原爆にかかわるものとして残した。

  現代の私たちは「原爆忌」を読むとき、何を読んでいるか。8月の暑い、むせかえるよう

 な空気、水陽炎、抜けるような青空か。 「 東日本大震災忌 」 を示されるとき、桜を、柔ら

 かい若葉を、穏やかな(はずだった)海を思い浮かべるのか。

  実のところ、「 原爆 」 も 「 東日本大震災 」 も、〝その時〟で終わりはしない。『 長崎 』

 の実作者は、季語によってその瞬間に出来事を固定するのではなく、時の流れを明示し

 て見せたのである。

    子等の墓凍つ長崎に米運ぶ            八木原祐計

    原子野に朽卒塔婆あり寒鴉             竹崎 繁朗

    爆心の凍土ぞ牛の尾が乾く             金岡 照光

    寒の水惨地に黒く濁りをり              坪口 和弘



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