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 小熊座・月刊


   2020 VOL.36  NO.424   俳句時評



      選句のときに考える

                              及 川 真梨子



  時評ということで、数回文章を寄せることになったが、不勉強もあって何を書いたらいい

 やら困っている。難しいことはこれから勉強することにして、なんとなく思ったことやちいさ

 な違和感を脈絡なく「ぼっぽら」書いていくことになると思う。のんびりお付き合い願いた

 い。

  俳句を続けていると、いくどと句会がある。句を作るのも大変だが、提出した後の選句も

 なかなか大変だ。たくさんある中から、一押しの句を選び、選句用紙に書き込む。大抵は

 何句か選べるが、数に限りのある中で絞り込んでいかなければならない。他者の句に優

 劣をつけて選ばなければならないプレッシャーもあるし、どの句が主宰の句か推理してい

 るなんだか不純な自分もいる。そんな楽しい「選句」の時間、選ぶ基準もひとそれぞれだろ

 う。

  選ぶ理由はさまざまあるだろうが、選び方の一つに直感による好き嫌いがある。単純に

 これが好き、これは嫌い、と仕分けていく方法だ。適当と言われてしまえばそれまでだが、

 今まで育ててきた俳句の感性があるのだから、直感というのもなかなか侮れない。感想を

 求められたときにちょっとまごつくが、言語化しきれていない感覚の部分にも、経験に培わ

 れた論理性があるものだ。

  私も当初は単純な好き嫌いで、深く悩まずに選句をしていた。だが最近、悩んだり判断

 に手間取るようになったりした部分がある。それは自分の中で、「好きじゃないが選ばざる

 を得ない」と分類される句が出てきたのだ。もうすこし丁寧に考えると、どうやら「内容は好

 きじゃないけれど、客観的に優れている」と自分が感じている気がする。客観的に、という

 ことは、平たく言えば、みんなが褒めるということだ。自分は好きじゃないけれど、みんなが

 褒める句、更にそれに丸をつける自分。そんなちいさな矛盾をどのように考えたらいいだ

 ろう。

  そもそも自分はどんな句を良いと感じているのだろうか。今回はまず内容、目的という切

 り口で考えてみたい。

  まず内容とは、その句で何を言いたかったのか、その俳句は何のために作られたのか、

 という目的の部分だ。句において文字に現れない精神部分とも言える。

  俳句はもちろん何を目的として作ってもいいが、なんでもかんでも書けるわけではない。

 そもそも俳句の目指すものは何か、と考えると、俳句とは詩である、という声が聞こえてく

 る。では詩とは、と辞書を引くと、①作者が得た感興を、リズムをもった形式で言語化した

 もの、②人の心を清め高めるような美しいもの、詩趣のあるもの、という二つの意味が目

 についた。

  一つ目に基づいて考えると作者が得た感興、つまり、「自分の心が動いたこと(=実感)」

 を表現するのが、詩の目的だと言える。句の中の作者自身の感覚が希薄だったり、言葉

 や字面だけで作ったりすると、「作者の実感」が抜けて言いたいことがわからない句になっ

 てしまう。すると、言葉が的確で句の景や状況が描かれていてもどこか物足りなく感じる。

 そしてこれは、知識や鋭い感性がなくても、なんとなく違和感として伝わってしまうものであ

 る気がする。「作者の実感」のある句に対して良いと評価するときは、句の内容に「共感」し

 ているといえるだろう。

  二つ目に基づいて考えると、詩とは美である、という感覚ではないだろうか。「作者の実

 感」はどこまでも個人的、主観的なものだが、美は客観的、社会的な価値判断が求められ

 る。主観的ということは自分ひとりのものだが、客観的ということは最初から大勢を想定し

 ているのだ。「みんなが美しいと思うだろう」という句を目指せば、極論、自分の心を動かさ

 ずとも、美しい句は作れるのではないだろうか。作者がどんな意図を持とうとも、書かれた

 ものが大勢の人から評価されれば詩として成立する。「一般的な美しさ」のある句に対して

 良いと評価するときは、個人的な共感を抜けた評価がどこかしらにある。

  以上を踏まえて、俳句の内容には、「作者の実感」を持って作られるものと、「一般的な

 美しさ」を求めて作られるものがある、とひとまず分類しよう。本当はもっとさまざまだろうが

 今回の思考の整理の目安とするものである。そのほか俳句を読むときは、内容だけでは

 なく表現の優劣も評価の大きな理由になる。句がどのように表されたか、読者にどのよう

 な言葉が提示されたのか、という手段の部分だ。句において文字で表される肉体部分とも

 言える。俳句は特殊な形式であるから、リズムや季語、切れ、二物衝撃など、様々な押さ

 えどころがあるが、誌面も残り少ないため、ざっくりと「俳句的表現」とだけ記そう。

  さて、以上をまとめると、俳句は「作者の実感」や「一般的な美しさ」を目的として作られ、

 「俳句的表現」を手段として作成される。選句のときは無意識ながらもこれらを評価し、自

 分の中で総合得点をつけていると思う。だが、人によって好みが違うのは当然で、「作者の

 実感」に重きを置く人もあれば、一方で「一般的な美」を重視する人もいる。私は「俳句的

 表現」はあくまで手段なのだから、内容の従にあたると思っているが、内容の意味を問わ

 ない、表現至上主義の人もいるだろう。

  ここまで分類していくと、どうやら私は、「作者の実感」重視で、主観の入らない美はあま

 り得意ではなく「好きじゃない」が、俳句としての力量や技術があるもの、「一般的な美」が

 あるものは「選ばざるを得ない」と感じてるらしい。しかし、当然一番は、三点すべての魅力

 を持つ句である。なかなか難しいが。

  このように分けては見たが、読者がどれを好むかは自由だし、一句をどのように解釈、

 評価するかも、意見の分かれるところだろう。しかし、このような分類から、自分の好みが

 どこにあるのかを考えるのも、何かの役に立つかもしれない。共感ばかり求めていては、

 自分の経験の外のものを評価できないし、美ばかり求めていては、それ以外の心の躍動

 というものを見過ごしてしまう。また、表現ばかりにこだわっていると作句の動機を見失い

 かねない。

  そして、何より大事なのは、自分の好みのいずれかをもって、他方の否定になってはい

 けないということである。これらは評価のものさしの違い、いわばジャンル違いなのだろう

 から。自分の好き嫌いはあっても、いろんな句を食べられたほうが、きっと豊かな栄養とな

 るだろう。



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