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 小熊座・月刊


   2021 VOL.37  NO.430   俳句時評



            「十年目の原爆俳句」考 ③
           ~十年目の「ナガサキ」~

                           樫 本 由 貴



  新型コロナウイルスが発見されて一年が経った。この原稿の執筆時点では、未だ新型コ

 ロナウイルス感染症(COVID-19) は拡大する一方だ。この一年たくさんのCOVID-19 関連

 の俳句が詠まれたが、「コロナ詠」は今年も引き続き見られるだろう。とはいえ、それは

 COVID-19 によって激変した生活を詠む分かり易い句ではなくなるかもしれない。私たち

 はこの一年で強いられる我慢や貧困に慣れてしまった。COVID-19 の影響だけではない

 歪な「ニューノーマル」が受け入れられた世界では、違和感を違和感として表明する声は

 必然的に小さくなる。微かにそれと分かる「コロナ詠」が残るのみかもしれない。

  東日本大震災の発生から十年目を迎える今年、予定されていた記念行事の催行も危ぶ

 まれる。COVID-19 の拡大を防ぐためには苦渋の決断が必要な場合もあるだろう。だが、

 耐えることは沈黙ではない。

  1954年3月、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で日本の漁船 ・ 第五福竜丸

 が被ばくし、半年後に船員の久保山愛吉が放射線被害で亡くなった。金子兜太も句集『広

 島』に 〈電線ひらめく夜空久保山の死を刻む〉 の句を寄せている。

  第五福竜丸以外の船舶や周辺の島民、動植物も被害を受けたが、何より毎日の食卓に

 上がる海産物の放射能汚染や一労働者が仕事中に被害を受けたという事実が、人々に

 強い問題意識を持たせた。事故後に東京・杉並の婦人団体から始まった核廃絶署名運動

 は国民的な盛り上がりを見せ、1955年8月に広島で第一回原水爆禁止世界大会が開か

 れた。兜太句はその潮流に呼応した社会性俳句である。

  こうした時事的な俳句は、実は句集『広島』には少なく、むしろ句集『長崎』に多く現れる。

 中でも目を引くのは 〈田打ち蟹田搏つぞ漁夫の水爆死 南成人〉 や 〈秋タ焼漁師の生

 涯ならぬ死よ 岩崎麦秋〉 のように、久保山の死が『長崎』の中で労働者の死として受け

 止められていることである。久保山の死に怒る人々の視線は、やがて自身の労働に焦点

 化していく。

   原爆忌農夫冷え田に股まで泥        日向野花郷

   市民という農民のかおにも表情がある   鈴木 三四

   げんげ腐ち農婦に生理休暇もなし      外崎 零子


  前年の「漁夫」久保山の死を踏まえると、「農夫」と「原爆忌」のとり合わせは示唆的であ

 る。そして1955年は朝鮮戦争勃発に始まる特需景気ののち、労働運動が活発化した年

 だ。その他大勢として個人が埋没することを拒んだ「表情」の発見と「市民」の自己意識の

 芽生えはこの時代を反映する。「農婦に生理休暇もなし」には、働く女性の存在だけでなく

 都市部に比べて制度そのものの発達が遅れる農村部の生活の様子が窺われる。

  『長崎』はその他にも、戦後復興期に忍耐を求められた人々の声を集めている。

   長崎や靴磨くより噴き出す汗         山本 素彦

   長崎や石蕗汚れ咲く基地の冬        宇都宮 靖

   ビヤホール「長崎かえせ」の渦の果て    藤本愁春子


  これらの句が表現するのは人々のイメージ上のナガサキではない。原爆によって壊滅し

 た「長崎」も、革靴を磨いて出掛ける人々が行きかう都会的な光景にまで復興した。もちろ

 ん完全に先の大戦や占領期が忘れ去られたわけではなく、佐世保には「基地」が残ったま

 まだ。何より、これは戦災で失われた土地全てに言えるが、原爆被害によって失われた

 「長崎」は二度と戻らない。さらに「ビヤホール」には、こうした怒りや叫びが「渦」となってい

 る。

  「浦上燔祭説」を唱えた永井隆は1951年に没していたが、著作やそれを元にした歌謡

 曲や映画は人々に広く受容されていた。例えば1951年の第一回NHK 紅白歌合戦(当時

 はラジオ放送)の大トリを務めた藤山一郎が歌唱した「長崎の鐘」は、永井の同名の随筆

 を元にしている。そうした文脈に支えられた「ナガサキ」のイメージは確固たるものだったは

 ずだ。

  しかし、これらの句に「祈り」のイメージは見られない。第二回で取り上げた浦上詠に頻出

 した聖堂やミサといったキリスト教的な要素もない。掲出句で試みられているのは、復興し

 た街並みやその過程で生まれた新たな「基地」、そして二度と戻らないものまでが現在の

 「長崎」であると主張することだ。あえて「長崎」の地名を用いていったんは「祈りのナガサ

 キ」を想像させているが、イメージが強いた許しと沈黙に対する緩やかな抵抗にもなり得て

 いる。

  労働や戦後復興の中で耐える人々を表象する句は、私の見立てでは『長崎』中に約60

 句ある。しかし句に「長崎」という地名を用いつつ「長崎」のイメージをずらしていこうとする

 句は少なく、10句に満たない。永井論への本格的な反論は、70年代の山田かんの言説

 を待たなければならなかった。だが、これらの句は人々の、小さくはあるが確かな「ナガサ

 キ」のイメージへの抵抗なのである。

  さて、私の時評は、第一回で原爆にまつわる歴史的事実を確認し、「原爆俳句」とは何か

 という問いを投げかけた。第二回では原爆句集『長崎』の中から「浦上天主堂」を詠んだ句

 を抄出し、俳句の「いま・ここ」を描く特性が果たす記録の役割を述べた。そして第三回で

 は被爆から10年を迎えた「ナガサキ」の人々が見せる、既存イメージへの微かな抵抗を取

 り上げた。

  繰り返すが、今年は東日本大震災発生から10年を迎える。時間的には『長崎』のような

 蓄積が出来上がる時期に当たるし、実際に様々な成果が見られるだろう。成果そのもの

 が重要なことは勿論だが、それを読んでいく同時代の人々も多様であってほしい。拙稿が

 その手助けの一つとなれば、これ以上嬉しいことはない。

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