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 小熊座・月刊


   2021 VOL.37  NO.434   俳句時評



            自画像としての俳句

                           渡 辺 誠一郎



  佐藤鬼房の〈切株があり愚直の斧があり〉は、鬼房自身の生きる姿勢そのものであり、

 鬼房の表現世界そのまま直截的につながって行く世界である。それは鬼房が直面してい

 た生活苦や時代の鬱屈した世界の一つの反映でもあった。戦後の鬼房にとっては、その

 ようにしか生きられなかったところから、零れ落ちるように吐き出された言葉が愚直であっ

 た。鬼房にとって俳句は、生身の生活の延長に常にあった。ここに虚が入り込む余地はな

 い。それゆえ、「愚直の斧」自体が、実際に存在するかのような確かなリアリテイを孕んで

 いる。しかし、この切株の句も、人口に膾炙されていく過程で、鬼房の存在をまといながら

 も、愚直の普遍的な在りようを捉えた俳句に変って行く。

  同じ切株の俳句を詠んだ、富澤赤黄男の〈切株じいんじいんとは ひびくなり〉とは、表現

 の位相が異なる。この句は、戦後の廃墟に見える切株に、触発された作のようだ(髙柳重

 信「富澤赤黄男ノート」)が、現実を超えた虚の匂いがする。〈じいんじいん〉の言葉からは、

 ひりひりするような感覚の響きが伝わってくる。富澤の切株は、切り倒された木の痛みと言

 葉とが共振しあうように捉えられている。しかし、この切株は、「虚無の木」の章にあるよう

 に、現実のものではない。この句は、〈切株は ついに無言の ひかる露〉に後に置かれて

 ある。切株の無言、これを無限の饒舌と反転して理解すれば、先の切株は自ずと虚構の

 なかで語り始まるのは、自明なことだ。と同時に、「あとがき」に黄赤男自身が、「私は俳句

 の〈純粋孤独〉を考へつづけてきた。」と書いていることを踏まえると、ここでの切株はまさ

 に、虚無なる〈純粋孤独〉。〈純粋孤独〉としての切株が、虚構の中でうなり続けている象徴

 としてあるのだろう。その意味では鬼房の切株とは違うとはいえ、同じ様に自らの心象の投

 影でもある。直接間接を問わず、俳句のみならず表現されたものは少なからず、作者の自

 画像を浮かび上がらせてくれるものだ。

  自画像といえば、『俳壇』の6月号では、「自画像としての俳句」の特集を組んでいる。

  巻頭に青木亮人氏が「笛と空、湯豆腐の薄明かりー図らずも滲み出た自画像句」と題す

 るエッセイを寄せている。続けて、20名の俳人、評論家らが、正岡子規をはじめ、俳人ら

 の自画像にふさわしい一句を取り上げ、鑑賞を書いている。

  青木氏は、「作品は、図らずも作家の佇まいを描くことがある。ふと洩らした一言や何気

 ない表情にその人物の性格が垣間見えるように、作者の横顔が句の余白に浮かぶことは

 少なくない。」として、西東三鬼の〈手品師の指いききと地下の街 三鬼〉、〈仕る手に笛もな

 し古雛 隆〉〈朝顔や濁り初めたる市の空 久女〉〈湯豆腐よいのちのはてのうすあかり 万

 太郎〉の四つの俳句をとりあげ、それぞれの俳人の「自画像としての俳句」世界を紐解いて

 見せている。

  「新興俳句の雄」と評された三鬼の「手品師」の俳句からは、「手品師じみた謎と魅力を振

 りまく俳人」の姿が浮かび上るとする。確かに怪しげな三鬼の影と匂いが沁みついているよ

 うな世界である。なお同じ号の三鬼の句に小生が取り上げたのは、〈広島や卵食ふ時口開

 く〉である。それは、三鬼らしいシニカルな感情を含む濃厚な世界に、三鬼そのものの姿を

 みたからである。卵を口に運ぶ三鬼の表情が浮かんでくる。

  青木氏が選んだ久女の句については、主婦としての生活時間とは違うところで、ひそと作

 句に励んだ久女の日常の生きる姿を、「朝顔」に託しているとする。家庭にあって俳句を詠

 むことの難しい時代である。それを思うと久女の切ない心情が「朝顔」から伝わっているよう

 だ。

  万太郎の俳句について、青木氏は人口に膾炙された〈湯豆腐〉の俳句を取り上げ、「孤

 愁をまとう老境のよるべなさが品良く漂うようだ」と鑑賞している。一方同じ万太郎の自画像

 句として、鈴木直充氏は〈鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな〉を選び、「数々の不始末が鮟鱇

 と共に煮えたぎると吐露し、まぢかに迫る死を凝視していた」世界と捉えている。〈鮟鱇〉の

 句は、「孤愁」の良さが「品良く」出た湯豆腐の世界とは違い、まさに人生の最期にあって、

 己の業を、鮟鱇の存在と重ね合わせて捉えようとする万太郎の必死な思いの表れでもあっ

 た。生そのものへの強い執着心そのものでもある。

  いずれも最晩年の万太郎の俳句ではあるが、両者の自画像句の選び方の違いが面白

 い。これらを合わせ読むと、万太郎の晩年の世界、自画像が一層多面的に、そして立体的

 に浮かび上がってくる。

  特集の中で選ばれた俳句とその鑑賞で、他に印象に残ったのは、橋本直氏が選んだ正

 岡子規の〈萩咲て家賃五円の家に住む〉である。橋本氏はこの句を、〈率直な子規らしい自

 意識の表出〉の世界とみる。特に五円の家賃、金銭への視線、「こだわりに」、近代都市生

 活者のリアルな現実の象徴と捉える。卓見だ。また子規の「自意識の表出」とも。もはやこ

 こでは、「萩」の存在への詮索は無用である。

  藺草慶子は山口青邨の世界から、〈こほろぎのこの一徹の貌を見よ〉を選んでいる。「命

 令口調」のスタイルに、「清廉」にして「高潔」と言われた青邨の、胸の奥深くに秘めた芯の

 強さを見る。藺草はこの俳句に、同じ作者の〈みちのくの鮭は醜し吾もみちのく〉の世界も

 重ね、同じ〈貌〉に「東北出身者としての作者の自恃が窺える。」とし、「穏やかな人格者の

 核にあったものは、潔癖で一徹な信念であった」と結んでいる。

  このようにみてくると、俳句から、俳人自身の姿を読み解いて行くのはスリリングにして楽

 しい。戦後まもなく、平畑静塔が唱えた「俳人格」が話題になったことがあるが、俳句から自

 画像を読み解くに時に、「俳人格」のような世界を求め、重ねるとつまらなくなるので気を付

 けた方がいい。俳句から生々しさを取ったら俳句の面白さがなくなってしまうからだ。




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