小 熊 座 2021/12   №439 小熊座の好句
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   2021/12 №439 小熊座の好句  高野ムツオ



    神田川三十余橋龍淵に        我妻 民雄

  江戸の治水の良さはよく知られている。水管理技術が発達した時代で、利根川

 始め多くの河川でも治水事業が盛んだった。現代でも機能しているものがあると

 聞く。江戸は海沿いに位置し良質な地下水を得ることが難しかったので上水道を

 築道した。玉川上水や神田上水が完成したことで江戸の給水人口は世界最大と

 なった。。神田上水は井の頭池を水源とし、1654年に完成した。1672年

 に江戸へ移住した芭蕉は。身元引受人の俳号ト尺という名主で魚問屋の元

 で働いていた。京の俳席で知り合ったようだ。五年後には神田上水の改修作

 業を請負うことになった。数百人の人夫を必要とする大事業で、その請負人

 になることができたのは「町政に関する重要な仕事をこなし、世間の信用を得

 ていたからだろう。」と田中善信が『芭蕉』で指摘している。俳諧に生涯を賭け

 ようした芭蕉がなぜ、こうした事業に携わるようになったか。諸説あるが、経

 済的理由が絡んでいたのは間違いないようだ。「点取り俳諧」に身をやつした

 くないとの思いもあったろう。この四年は真の俳諧に生きようとする芭蕉の

 雌伏の期間であった。

  この句の「三十余橋」がいつの時代の神田川の橋の数かは知らない。だが、生

 活に欠かせない多くの橋の下にも目に見えない淵があって、一冬を潜みながら来

 る春には天に登らんと期して耐え偲んでいた若者は、決して芭蕉一人ではなかっ

 た。鬼房もまた十代の頃、東京小石川で孤独に耐えながら明日を夢見ていたので

 ある。

    蛟龍よ塩竈の月篤とみよ        佐藤 鬼房


  大場鬼怒多が庵主の関口芭蕉庵は芭蕉の水番屋跡地である。後に「龍隠庵」が

 建つ。この名が句の発想元かもしれない。

    生れてより置賜暮し菊膾        鶴巻日々来

  「置賜」は山形県内の地名。置賜郡は七世紀には陸奥国に属していたが、出羽

 国の新置に伴いその一郡となった。「うきたむ」「おいたみ」などの古い呼名や「老

 玉」「置玉」などの表記もある。「日本歴史地名大系」によれば、この地の蝦夷の族

 長が二人出家して仏門に入ることを許されたとある。だが、つまりは朝廷勢力に

 屈服させられて武力を捨てざるを得なかったということだろう。語源はアイヌ語

 で「広い、葦の生えている谷地」、肥沃の地ということだ。「置賜」の漢字表記

 は、朝廷側からすれば、我らに良い土地を差し出してくれたという意味ではない

 か。ここも古代から侵略された忍従の地なのだ。置賜をイザベラバードが「東洋

 のアルカディア」と呼んだことは有名。「菊膾」にまほろばへの愛がこもる。作者

 は置賜郡高畠町在住。

    今着きし南部杜氏や雁の声        蘇武 啓子

  これも固有名詞が効果的。南部杜氏の酒造り唄が聞こえそうだ。ただし、地名

 人名などの安易な多用は禁物。

    足穂忌の禿頭に降る流星雨        春日 石疼

    放射能沁みたる五体秋深し        橋本 一舟

    少し削れば梟の貌となる         八島ジュン

    病の巣なれど生きおり柿甘し        紺野みつえ






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