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 小熊座・月刊 
 


   鬼房の秀作を読む (136)    2022.vol.38 no.440



         声紋をたどれば雪解川の音       鬼房

                         『何處へ』(昭和五十九年刊)


  雪解けは、微かな気配とともに始まり、細かい光とノイズを孕みつつ育ち、やがて

 はごうごうと響きわたる流れになる。その地に生まれついた者は、浅い目覚めの中

 で、あるいは沈み込む深い眠りの中で、年を重ねながらその響きを感じて生きてい

 る。即ち雪解川の音は、その地で生まれ育った〝ある誰か〟の身に浸透している、

 その者に固有の〝音〟だろう。

  声紋、とは声を周波数の構成に分析して、目に見える図に表したものだ。当然のこ

 とながら、人ひとりずつそれは違っている。声紋は必ず〝ある誰か〟の声紋なのだ。

 ただし、指紋と同様それは、目で見たからといってそれが誰のものであるか、感覚的

 に結びつくことはない。あくまでそれはデータとして、客観的に結びつくものである。

  〈声紋をたどれば〉とある。たどる、とは何かをつきとめるために、それに沿って

 進むということだ。声紋に沿って、その持ち主つまり〝ある誰か〟へと向かって進

 んでいく。果たしてそこに、〈雪解川の音〉があったという。それは声紋が、その地

 で生まれ育った〝ある誰か〟の身に浸透している〝音〟に結びついた、という

 ことだろう。

  ただし、この二つを結びつけるのは客観でなく感覚である。すると、ここに想定さ

 れる〝ある誰か〟とは、句の主人公本人に違いない、と思われてくるのである。

                         (鴇田 智哉「オルガン」)




  苦虫を嚙みつぶしたようでずっと怖い人だと思っていたが、本当の鬼房は好奇心旺

 盛で茶目っ気のある人ではなかったか。「声紋」などとおおよそ俳句にはむかない捜

 査用語を引っぱり出し、上五に据えたのが可笑しい。声紋とは声の指紋にあたるらし

 い。その周波数の折れ線グラフを辿って行ったら雪解川だったと洒落たのである。雪

 解川という無機質のものを擬人化して犯人に仕立てた。揶揄である。やゆは単なる

 からかいで、――嘲笑などと広辞苑にあるが片手落ちである。万葉の頃より揶揄

 のうしろにはそこはかとない愛情の裏打ちがあった。俳諧もまた同じである。鬼

 房の愛でた雪解川を分県地図で仮定する。例えば北上川を挟んで岩手山と対う

 姫神山から生ずる古館川、あるいは胆沢満月の下を流れる胆沢川の上流。そし

 て肝腎なのは音である。ドドーン・ドウン。普羅のいう名山けづる、景気のいい

 音は合わない。重すぎる。もっとサラサラに近い音でなくてはならぬ。掲句に

 近い俳諧的言い立ての句を二つあげる。〈赤人はわが蜥蜴の名寒がり屋〉〈黒

 女とはわが蜥蜴の名太り気味〉蜥蜴よ頑張れとばかりに、万葉の大歌人・山部

 赤人、高市黒人(ならぬ黒女としたのだが)の名前をつけている。鬼房には重く

 れ、自虐的、詰屈などの評言があるが『愛痛きまで』に限れば暗色ただようイメ

 ージはまるで無い。没年の前年の上梓。笑いの極まったところにある軽みを意

 識していたと思われる。                       (我妻 民雄)