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  小熊座・月刊


   鬼房の秀作を読む (150)    2023.vol.39 no.454



         菜の花や窮死といふが頭を掠め

                              鬼房

                        『何處へ』(昭和五十九年刊)


  昭和40年12月、私が第三回「海程新人賞( 海程二十三号)」を受賞した時、選

 考委員の佐藤鬼房先生は私の作品に「順位はない。強いていえば『氷る沼に火を匂わ

 せる逢いたくて』『火の縄をたぐり背の子の青さけす』のか細い表現が妙に捨てがた

 い」と感想を頂いた。海程のこの号に鬼房先生は「一の沢雑記」を執筆していた。

  先生が六歳のとき父は二十九歳で病死。悲しさに耐えた少年の難儀さは大変なもの

 であったと思われる。戦争の徴兵により入隊の苦難を克服し、生活を守りつつ六十六

 歳で「小熊座」を創刊。蛇笏賞など多くの受賞に恵まれ、全国俳壇の重鎮として歴史に

 燦然と輝いている。

  鬼房先生のこの作品は才気に富み、心象風景を強く感じる。人間は誰しも世の流れ

 の中において、生活や体調のことを心配しながらも克服に努める。鬼房先生は病気の

 ことをふと思ったのだろう。私も処方箋によるお薬を欠かさず服用。先生の作品と同じ

 ようなことを考える時もある。人生は波乱が多く変化を伴うものであるが、負けないで

 生きようとするものだ。生命への愛着があるからこそこういう名句ができた。

  菜の花の美観が効いている。通りすがりに咲いていた菜の花なのか。菜の花は単な

 る傍観者的な存在ではない。初々しい菜の花に自己の命を確かめる鬼房先生の姿を

 感受する。

                        (舘岡 誠二「海原」)



  「窮死」という言葉に驚く。昭和58年、鬼房六十四歳の折の句。直前の3月、鬼房

 は35年にわたる製氷会社の勤めを終えた。困窮のために死ぬかもしれないという思

 いを持つほどの経済状態であったのか。

  第八句集『何處へ』に収められた掲句の前後、一大転機にもかかわらず退職を詠ん

 だと思われる句は驚くほど少ない。明らかなのは〈花種子を播くは別離の近きゆゑ〉

 一句のみで、淡々としたものである。心そぞろですらある。さらに〈四月憂し酒宴に招

 ばれゐることも〉があり、直後に「多賀城『鶏善』にて」の前書の三句が並ぶ。おそら

 くは職場送別会があったのだろう。この酒宴の何が「憂し」なのか。

  上五「菜の花」にも驚く。菜の花の句は叙景的に用いられることが多い。「窮死」と

 の取り合わせなど見たことがない。しかし、繰り返し風に揺れる花菜畑をじっと眺めな

 がら、彼はトランス状態に入ったのではないか。自らの心の奥の不安感を覗いてしまっ

 たのではないだろうか。

  句集発行の翌年、昭和60年に「小熊座」創刊。この句が作られたとき、すでに俳句

 結社立ち上げの思いが固まっていたであろうことは想像に難くない。退職した鬼房の心

 のうちには、退職にまつわる何事よりも、理想とする詩の世界への熱い思いと先々へ

 の不安が満ちていたのだろう。「窮死」をも懸けての覚悟の船出であったに違いない。

                            (春日 石疼)