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  小熊座・月刊


   鬼房の秀作を読む (166)    2024.vol.40 no.470



         川の幅だけ生き俺の青い夕焼

                              鬼房

                         『地 楡』(昭和五十年刊)



  佐藤鬼房の俳句が「自分自身が何者であるかを捜し求める旅そのものであった」

 (高野ムツオ)とする見方は、その作品を通覧すれば誰もが首肯するところだろう。

 〈よるべなき俺は何者牡丹の木〉(『地楡』)などと、鬼房自身もそのことを直接句に

 してきた。この句の〈俺〉も、作者自身を示す一人称として読みたい。したがって川の

 流れの心象風景は、作者のそれまでの人生における流浪や苦難、多くの人々との交

 流などの記憶と重なる。

  しかし、〈川の幅だけ生き〉という言葉からは、一人の人間の経験などは限定的なも

 のでしかないとの自覚も垣間見える。人生経験を単に振り返っているだけの句ではな

 いだろう。ここでの「川」と作者である鬼房とはほぼ一体化した印象を読み手に投げか

 けている。この自然との一体化による自身の心象の投影は、〈吐瀉のたび身内をミカ

 ドアゲハ過ぐ〉(『鳥食』)等の句に見られる鬼房俳句の典型的な手法。『地楡』には

 〈陰に生る麦尊けれ青山河〉があるが、そのような洗練された句とは異なり、自己をさ

 らけ出すこの句には、作者の肉声が聞こえる魅力がある。

  句末の〈青い夕焼〉が読み手に与える印象は鮮烈だ。この〈夕焼〉も作者自身の投影

 とすれば、〈青〉は青二才などと同じ未熟、未完成の意か。この句を成した当時の作者

 とその感情の高揚が伝わってくるようだ。

                            (押野  裕「澤」)




  佐藤鬼房の第四句集「地楡」は、大いなる自然風土の全方位を逃さず見据え、対峠

 する人間の根源を綿密に、厳密に捉えている。時には大地に近接し、密着し、また時

 には遠きより見ている。自らを詠む。自らで自らの現実かもしくは非現実を詠む。

  「逃水のごと燦燦と胃が痛む」自己の苦痛と次元が交錯する。「風説の泥流に羽化

 わが羽音」何物かに成り変わった夢想。「夜明路地落書きのごと生き残り」落書きと自

 認するまでに不確実な存在となってしまっても生き残っている。大地に近接すれば、

 「陰に生る麦尊けれ青山河」自己の、人間の、生き物の淡い生命を託す。託される、

 陰に生る麦。「蝦夷の裔にて木枯をふりかぶる」またも淡き自己存在を蝦夷たる気概

 に身を置く。「よるべなき俺は何者牡丹の木」でもやはり自己の中心を見失いそうにな

 ってしまうのか。地に根を張る牡丹の木の存在の前に、「俺」が浮遊する。しかし揺ぎ

 無き一人称の「俺」はたとえ浮遊していても確かに存在している。何者であるかを自問

 し続ける。牡丹の木にも問いかけるように。そして「俺」の浮遊からの着地点が不意に

 眼前に現れる。「川の幅だけ生き俺の青い夕焼」川の幅という自然のささやかな一部

 分に見出した場所、「俺」の着地点。生きる「俺」の場所の発見が静謐に描かれる。生

 きる意味は、死を含めて模索していく。どちらも自己が存しなければならない。

  青い夕焼は「俺」の着地点の雄弁な色。

                              (関根 かな)