|
小熊座・月刊
 |
2025 VOL.41 NO.478 俳句時評
文章博士たちへ
樫 本 由 貴
「俳句」(2024・12)の特集「没後20年 田中裕明―句集未収録作品を読
む」は田中の人気を印象づけるものだった。全句集や「静かな場所」ならともか
く、総合誌で、生前の著者が句集には入れなかった句の特集とは。田中を深く知
りたい読者がそれほど多いのだろう。
かくして今後は詩情や句意の明瞭な句が愛されてゆくのだろうが、田中は多分
に通好みの俳人である。現在の田中の人気は、当人の謦咳に接した者らによる追
想まじりの評価と、田中を貪り読む新世代の「通」な言説が入り交じった独特の雰
囲気から生まれている。以前田中惣一郎が「円座」の〈魚目と私〉欄に、周囲の若
手たちは「文章博士」のように田中裕明に詳しくて気後れしたものだと書いていた
と記憶する。昨今「参照性」の議論に参加している書き手たちが特に熱心に読み
込んでいるのが田中裕明だった。
昼火事の鯉も逃げたる連歌かな 田中 裕明
『櫻姫譚』(1992)所収。難解な田中の中でも特に意味の取りづらい句だ。
句意は小川軽舟が「連歌というのは室町の戦乱の世の現実逃避」「昼火事を戦乱
の寓意と読めば「連歌かな」も読み解ける」(「田中裕明 人と作品」『俳句史
研究』第23号)と評釈している通りだが、軽舟が続けて「田中さんに聞いたら別
に意味はないと笑われそうですけど」と述べるように、結果としてそう鑑賞でき
る句が出来上がったということに過ぎないだろう。実はこの際句意は重要では
ない。この句は明らかに、短時間の間に段階的に、パーツごとに作られている。
「昼火事の」と来れば次は二音の名詞で、そのあとは「も」がよさそう、ならば
「鯉」にしておこう、「も」と来れば次は「○○たる」、鯉なら「逃ぐ」であろ
う。ここが連体形だから、下五は「かな」、「かな」の前は何がいいだろうか……
と出来上がった句なのだと、田中の「文章博士」たちは断言するに違いない
(眼前に寒鯉の一匹くらいはいたのかもしれないし、中七が先にできて、上
五の「○○○○の」の空隙を何の言葉で埋めるかは後回しだったかもしれな
いが)。つまり、田中の脳内には無数の付属語の選択肢が、一語が埋まるご
とに出現し、最終的には「○○○○の○○も○○たる○○○かな」という美し
い骨組みとなるのだ。藤田湘子が『20週俳句入門』で強調したような俳句の
「型」が、膨大な数、その都度生成されているイメージである。
これはおそらく、1980年代に坪内稔典が擬古典派と呼んだ俳人らに共通する
思考回路である。岩田由美によれば、岸本尚毅は写生について「言葉で景色を追
いかけても絶対に追いつかない。言葉を罠のように立てて待っていると景色の方か
ら飛び込んでくる」とよく言っていたという(岩田由美「俳句を通して見た世界」
『岸本尚毅集』2003)。「磁石が鉄を吸ふ如く自然は素十君の胸に飛び込ん
で来る」という虚子の素十評(『初鴉』序)を方法論化すればこうなるのだろう。
そしてこれを汲み取って先鋭化させたのが「文章博士」たち、佐藤文香のいう「俳
句好きによる俳句の時代」(「現代詩手帖」2021・9)の担い手なのだ。田中
裕明ら「青」同人の俳句を愛読していること、田中裕明の生前に作句していな
いこと、田中裕明賞を受賞していること、生駒大祐が主唱する「参照性」概念
の議論で言及されていること、東大俳句会で有馬朗人や岸本尚毅らと句会を
していたこと、有季定型での実作を主とするが新興俳句や戦後のいわゆる前
衛俳句も受容していることなど、これらの条件をいくつか満たす俳人のことで
ある。生駒大祐、安里琉太、柳元佑太、岩田奎が代表格で、藤田哲史、西村
麒麟、松本てふこ、田中惣一郎、岡田一実も近い位置におり、若杉朋哉、中
西亮太も連続した文脈で論じられよう。そしてこの手法を批判的に回避して
いるのが大塚凱か。
数百、数千句を自然と諳んじ、そこから細分化された型を抽出、あるいは創出
するのが彼らの手法だ。「○○○○の○○も○○たる○○○かな」という型が事
前に完成しているわけではなく、任意の箇所に一語が埋まるたびにあらゆる付属
語のリゾームから一つが試行される。この説明でピンとこなければ、西原天気・
生駒大祐・堀下翔による俳句の合作を記録したウェブ記事「リレー俳句で遊ぶ」
(「ウラハイ」2015・12・27)を読むといい。
生成AIの原理と似通うが、三語文を獲得した赤子が言語を操るまでになるよう
なもので、程度は違えど俳人はみな同じことをしている。批判すべきことではな
い。ただ、表現へのフェティシズムが作句動機となり、俳句を作るために俳句を作
るという顛倒の末に、完成度の高い句の打率が高騰している現況には、不安を掻
き立てられる。彼らは型だけでなく自立語さえ「参照」してはいないか。例えば
〈墓石に映つてゐるは夏蜜柑/尚毅〉(『舜』)の韻律を借用した〈冬晴に突き出
でゐるは箒の柄/大祐〉(『水界園丁』)は、「冬晴」に近景の物象が「出」てい
るからには〈冬空へ出てはつきりと蚊のかたち/尚毅〉(『鶏頭』)が種だし、冬
の「箒の柄」といえば〈生前も死後もつめたき箒の柄/龍太〉(『忘音』)だ。
〈一と夏の沖の温度を李かな/佑太〉(「箒」旧作50句)は〈一と夏のくらさ沖
ゆく流れ藁/魚目〉(『秋収冬蔵』)そのままである(本歌取りと弁解するには
元句が無名すぎるし、元句の世界と「李」の趣向が無関係だ)。
しかし、これでいいのか? 何が俳句になる(・・)か、その判断を外注するな
ら、作句の営為に何の意味があろう。文芸は審美なのではないのか? 生成のみ
を目的とするのか? かつて依光陽子は飛行機雲やクレーンといった句材の陳腐
さを指弾し(「みんなおなじで、みんないい?」「週刊俳句」2015・1・
11)、それらの句を持つ俳人の顰蹙を買ったが、この評の核は「人の個性はそ
の人だけのもの」である一方で「「誰かが詠んだような句は詠まない」と腹をくく
るところがスタート地点だ」という主張にある。何が俳句になる(・・)のかを探す
長い旅をするのが俳人の一生だ。そのヒントとして「参照」するのが過去の秀句
なのだろうが、正木ゆう子は「起きて、立って、服を着ること。言葉を記すとはそ
ういう行為である」(『起きて、立って、服を着ること』1999)と言ってい
る。
もう一つ注文すると、男性俳人の秀句ばかりを拾うのはホモソーシャルの批判を
免れまい。木田満喜子や南上敦子などは彼らの趣味に合うと思うのだが。
声に出しては寒暖の春木賊 木田満喜子『からたち』(1983)
椎茸の塵を払ふや田の氷 同
読を竹落葉する頃にこそ 同
くちなしの実にときならぬ南風 南上 敦子『眞赭』(1986)
夕東風の誰れ言ふとなく火消の井 同
女帝の代明るかりしや行々子 同
|
|
|