小 熊 座      『雲雀の血』 千葉 皓史
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2007年10月、俳人協会で講演
中の高野ムツオ

 
  邑書林・セレクション俳人 句集『高野ムツオ』より



  夢の現在

 ―高野ムツオ句集 『雲雀の血』 千葉 皓史

 高野ムツオ氏は昭和二十二年宮城県生まれ。「海程」
同人。「小熊座」編集長である。
 「小熊座」を発行する佐藤鬼房氏の句業をさかのぼる
と、いわゆる社会性俳句に行き当る。その激烈かつ饅舌
なる初期作品は、現実社会の不条理を慨嘆し、それに全
身をもって立ち向かわんとするエネルギッシュで、イデ
オロギッシュな性格をもつ。

 枯原の鉄材に日が倒れゆく        佐藤 鬼房

 戦あるかと幼な言葉の息白し           〃

 この情熱を支えたのは、一種のロマンティシズムであ
ったといえるが、私見では、以後の鬼房氏の作品は、社
会に対する詩の無力の自覚を経て、新興俳句のふるさと
ともいうべき詩的宇宙へと回帰する。その詩的宇宙を構
成する素因の一つには造化という名の書物があり、いま
一つにはみちのくの風土がある。

  ねむりさへ暗夜ひばりの湧くごとく     佐藤 鬼房

  ひばり野に父なる額うちわられ          〃

  青空は創の深みぞ夏ひばり            〃

 近年の鬼房氏の表現にはおのずと幅が生まれた。平明
な日常をリアリズムの文脈のうちに掬いとる作品をみせ
る一方、超現実的な表現を示す作品も多い。その混沌を
むしろ方法として取込みながら、諧謔のうちに自己を客
体化する余裕も失わない。鬼房氏の近年の芸境は、純真
と、一種老獪なる恰幅とを併せもつに至っている。

  長距離寝台列車(ブルートレイン)のスパークを浴び白長須鯨(シロナガス)
                                 佐藤 鬼房

  除夜の湯に有難くなりそこねたる             佐藤 鬼房
   〃
 さて、昨年末に上梓された高野ムツオ第三句集『雲雀
の血』(ふらんす堂、一九九六刊)は、右に概観した佐
藤鬼房氏の句業のいわば中間期にあたる作品とその詩的
宇宙を共有する。『雲雀の血』の素因の一つには、画集
や映画を含む広い意味での書物の世界があり、いま一つ
にはみちのくの風土がある。

  野に拾う昔雲雀でありし石           高野ムツオ

  畦を来る一本足や夏雲雀              〃

  青空の暗きところが雲雀の血            〃

  拳骨の中を上れる夏雲雀              〃

  石斧や夜は雲雀の声を溜め             〃

  人体は荷物のひとつ夏雲雀             〃
 
  揚雲雀またも湖底の机より              〃

 こうして『雲雀の血』には雲雀の句が多い。鬼房氏の
中間期の作品から、「ひばり」の句ばかりを抽いた所以
である。ある意味では当然のことながら、モチーフの上
でも、その扱いの上でも、両者の間には親近性が見られ
る。ことさらにかかる指摘を行うことの理由もまた、以
下おのずと明らかになることと思う。

 高野ムツオ氏は、私と同年の生れである。このたびの
氏の句集で私が何よりも感銘を受けたのは、言葉のあっ
かいが慎重かつ正確であること、各作品の叙法が緊密か
つのびやかであること、したがって調べに流露感のある
こと、結果、エロティックなイメージの頻出する句集で
あるにもかかわらず、読後に一種の清浄感、静謐感を覚
えたことである。さながら、黒インキ一色で美しく精密
に刷り上がった端正な木口木版の画集を繰るかのようで
ある。これは私だけの印象ではあるまい。なかんずく感
銘を受けたのは次の一句である。


  女体より出でて真葛原に立つ

 もとより不思議な味わいの句であるが、強い現実感、
存在感がある。かすかな既視感をたどって能楽の世界へ
と至る道もありそうだが、作者の本意ではあるまい。こ
の作品のもつ現実感は、むしろ私どもが夢の中で味うも
のである。夢の中でこそ私どもを圧倒する現実感という
ものがある。この句のもつ現実感はそういう種類の力で
ある。夢というものの正体が仮に変型された「記憶」で
あるとするならば、それは私どもに「思い出す」作業を
強いる。細部をより鮮明に思い描くことを強いる。夢を
より鮮明に見ようとするその逃げ場のない行為は、まさ
に現在のものであり、現実のものである。その証拠に、
覚醒した私どもはびっしょり汗をかいていることさえあ
る。

 生まれた瞬間の記憶を私どもは誰ひとり持ち得ない。
しかしそれは何びとも疑い得ない事実である。それとい
うのも、私どもは人間のからだをもっている。このから
だこそがその動かぬ証拠である。身体は出生の瞬間を記
憶している。胎内の記憶を保存している。というより
も、身体は出生の記憶そのものである。記憶の実体であ
る。

 ちなみに「真葛原に立つ」ているのは、作者その人で
あろう。私はそう読む。一句の現実感は、そう読むとき
にもっとも強いからである。掲句の現実感は、作者が自
身の記憶を身体のうちに所有し直したことによって生ま
れた。さらにその身体をあらためて「真葛原」に立たせ
たことによって動かし得ぬものとなった。記憶を身体そ
のものとして発見すること、その身体の立つ地平に表現
の視座を据えること、この認識の方法こそは私どもが日
頃からリアリズムと呼び習しているものである。つまり
掲出作品は、『雲雀の血』の中の他の多くの作品とは異
り、リアリズムの地平の上にある。比較のために集中か
ら他の作品を引こう。

  みちのくの吾に尾が生え春の霜

  青森の水子が訪ね来る霜夜

  ヴァギナのなかの龍(ドラゴン)早星

  七ッ森は七つの子宮冬の虹

  土蜘味の胎内にあり春の星

  真裸の幼霊がおり青蘆原

  夜の稲田母の子宮にひろかれり

 かかる諸作を「子宮願望」の一語でくくってみてもは
じまらない。それは既成概念にすぎないからである。右
の一句一句のイメージに作者の抱いたリアリティを想像
することはあながち不可能ではないが、だからといっ
て、作者の想念の記憶にこちらが共感を覚えるというこ
ともない。あくまでもかかる諸作は夢の側にあり、しか
もそれは夢の記憶にすぎない。率直にいえば、私どもに
は奇怪な絵を見せてもらったという思いが残るばかりで
ある。右諸作には「女体より出でて」の句に成立してい
るような夢の現在がない。つまり「真葛原に立つ」身体
がない。身体を立たしめる現在の地平がないからであ
る。ここでいう「現在」とは、「歴史的現在」でも、「夢
の現在」でもいいのである。「現在」の地平の上にある
句のうちのいくつかを引く。


  山脈の色と匂が蚕豆に

  牡丹咲く日本海溝恋いおれば

  波音に鉄道草の月日あり

  枯れてより荒地野菊の直立す

  白鳥の千羽となれば火気厳禁

  末黒野の夕焼飛べぬもののため

  葡萄の木地下水脈は日の彼方

  電源の切れたるのちの卯月波

  干魃田蝙蝠傘が訪ね来る

  妣と会う母の鼾や蛭蓆

  雨の夜の巣箱もつとも思惟に充ち

  鈴懸の花の日暮の蛇蠍

  音の出る宝石箱や夜の植田

  一日中虫歯愛せば秋の風

  木枯を待つ鶏冠あり千賀ノ浦

  雪の夜の短波放送より羽音

  飛ぶ夢を見しゆえ茨の実が赤い

  夜見の声ともども春の川曲る

  産み終えしばかりのごとし夕牡丹

  みな陸を向き陸前の夜光虫


 いずれも濃密をイメージを抱する作品であるが、ここ
では仮に「産み終えしばかりのごとし夕牡丹」に着目し
たい。尋常ならざる比喩が尋常ならざるがゆえに一定の
働きを待ち、中七下五の間に置かれている型通りの「切
れ」が、型通りであるがゆえに、作品に穏やかな定型感
をもたらしている。こうして、比喩が一定の有効性をも
ち、「切れ」が作品を構造化する働きをもち得ているの
は、ひとえに、着目句が「現在」の地平の上にあればこ
そである。

 「現在」が、私どものこの身体のうちにしか宿り得な
いものだとするならば、「夢」もまたそうである。『雲雀
の血』の諸作は「夢」というものについて私どもが抱い
ているイメージに近いものを備えている。しかしその多
くはさしずめ夢の記憶とでもいうほかはないものであ
る。それははじめから自らの正体が夢であることを明か
している。読者にしてみれば所詮は高野氏が見終った夢
なのである。「野に拾う昔雲雀でありし石」「青空の暗き
ところが雲雀の血」には、見終った夢の痕跡を現在に確
かめようと試みるムツオ氏の姿がある。「昔雲雀であり
し石」も、「雲雀の血」も、記憶の扉をあけるための不
思議な記号であり、作者の手によって美しく彫り込ま力
た鍵の類にとどまるのである。

 血、帆船、雲雀、骨、問、翼、陸前、みちのく、星、
尾、鰓、夜、陰、底、幼霊、羽、眼窩、東北、人間、押
入、祖母、女体、父、夢、時計、鬼、……『雲雀の血』
の作者が偏愛する詩語の数々である。こうした詩語の
数々もまた、夢の記憶の扉をあけるための記号であり、
鍵なのだといえよう。

 季語の延長ないしは代用ともいうべきかかる一群の詩
語を偏愛するのは、しかし、ひとり高野ムツオ氏ばかり
ではない。はじめに概観したように、ムツオ氏の師であ
る佐藤鬼房氏がそうであり、金子兜太氏がそうである。
西東三鬼、高柳重信がそうである。三橋敏雄氏を加えて
もいいかも知れない。俳人以外にも寺山修司、唐十郎が
いる。まだまだたくさんの名をあげることが出来るだろ
う。この一事に私どもは、ある一群の作者たちによって
分け持たれ、受け継がれてきた夢が存在したこと、そし
てそれが高野ムツオ氏のうちにもひきつがれていること
を確認するのである。近代化が都市と農村を分離して以
来、怨差と自己嫌悪のはざまに生れた様々な幻想が、ど
れ程の普遍性を持ち、どこまで永続性のある読者を持ち
得るかについての答はまだ十分に出切ってはいない。
 どうやら私どもは、寝床で見る夢の内容さえ独りでは
決められない存在らしい。私どもをして夢を見させるの
はむしろ社会であり時代なのだ。時代が夢を見るのであ
る。とすれば、さきに再三言及した「リアリズム」もま
た同様にどっぷりと夢の中にあることになる。だが、い
ずれも夢であるならば、俳句表現の上においても、この
現実という名の万人の夢をこそ追いかけてみきっ、私な
どはそう考える者の一人である。


               (初出「泉」一九九七年七月号)
                       (ちば・こうし)


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