2007年2月 bQ61号 俳句時評
俳句とニホン語
一、俳句という高性能メディア 村山半信
「俳句はテレビだ」ということから話をはじめたい。
日本語で最も厄介とされる一つが同音異義語。
あう=合う、会う、逢う、遭う、遇う
とる=取る、獲る、採る、捕る、撮る、執る、摂る
わらう=笑う、哄う、咲う
「欧州が嗤う日本の一一七○万本ボジョレー狂騒曲」などという字もありますね。雰囲気がよく出ている。
異字同訓とも云う。同じみなのに、その訓(よ)みに当てる漢字がたくさん。中国の史書『隋書倭国伝』に「文字無し。ただ木を刻み、縄を結ぶのみ」と記されていた我が国の祖先が、音声だけで存在していた大和言葉(和語)を五〜六世紀のころ仏教とともに伝来した漢字で書き表そうとしたとき、漢語における意味分化を知り、さまざまな用法で書き分けようとしたことによる。おかげで、日本語はずいぶん豊かなものになった。但し、幼稚な段階にあった和語が、漢字によって自らの発達をストップさせた面もあるが。
十六〜七世紀にはスペイン語・ポルトガル語・オランダ語、明治から本格的に西洋語(外来語)が流入し、漢文教育を受けた明治人たちの手で見事に咀嚼され、自然なかたちで日本社会に受容されていくことになった。言語学では「言語干渉」と呼ぶ。「新しい」という言葉の語源は、物々交換の時代、甲と乙を交換するときにお互いがアタルことから生まれたことによる。物の値段のアタヒもここから来た。文明の衝突によって生まれるのが、新しい言葉である。
欧米語のわずか二十六文字のアルファベットに比べ、なんと表情の多彩なことか。情理かねそなえ、これほど視覚性に富む言語は世界のどこを探しても無い稀有の文字システムであることを、俳人は喜びたい。否、この表記法があったからこそ、短い詩型が成立したといっても過言ではない。日本語を学ぶ外国人は、ものを象形する漢字の偏旁冠脚に異常なほど興味を示し、その合理性に感嘆するそうだ。
江戸時代の儒学者伊藤長胤(東涯)が著した『操觚字訣(そうこじけつ)』は異字同訓を詳しく解説し、たとえば、鳥獣がなくときは鳴く、声を上げて悲しむときは啼く、声を上げないで涙をこぼすときは泣くなどと書かれ、こうした漢字の書き分けが教養人たちの嗜みになった。漢字、そして、ひらがな、かたかな他いくつもの表記法を創意工夫しながら獲得し、縦横に組み合わせることにより、日本語は自在で立体的な言語に成長したのである。
山又山山桜又山桜 青畝
「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク 展宏
α(アルファー)β(ベーター)γ(ガンマー)緑野の鴉 清子
言葉には耳で聞くという要素もあり、その典型がオノマトペ。つい先年、山口仲美編『暮らしのことば 擬音・擬態語辞典』が出版され、捲っていてじつに楽しい。
擬声語ともいうが、いろいろな感覚や動作などを間接的に描写することばをも含め、擬態語という名が付いた。朝鮮語や中国語にも多いそうだ。私たちは赤ん坊のころから、犬をワンワンだとか、雷をゴロゴロだとか、散髪をチョキチョキなどと、さんざん聞かされて育っているわけで、千個近くもあるそうだ。「食べる」一つをとってみても──
ぱくぱく・もりもり・がつがつ・むしゃむしゃ・ぽりぽり・ぼりぼり・くちゃくちゃ・もそもそ・ばりばり・ぺろりとというように、数え切れないぐらいのオノマトペが活躍する。日本人独特の物の見方や感じ方から生まれてきたものであり、貴重な財産である。
けろりくわんとして柳と烏かな 一茶
ひらひらと月光降りぬ貝割菜 茅舎
ザザザザと蛍袋のなか騒ぐぞ 兜太
オノマトペは俳句の口誦性をぐんと高め、内容を生き生きさせてくれる。本来的にものを詠む文藝であるから、直接かつ具体的に表わそうとすることに至極向いているのだ。日本語という母音五つ、子音十数個という少ない音素がいっそう生きてくる。名詞の文学といわれる俳句創作にとっては嬉しい助っ人。
かくして、文字情報という観点からすると、古今和歌集を端緒に表音文字=ひらがなで書かれた和歌・短歌がラジオ的であるのに対し、視覚的にも聴覚的にも読み手を多面的に刺戟する構造を持つ俳句は、きめ細かな表現能力のあるデジタルハイビジョン&5.1ch搭載の高性能テレビ。「ことば好き」の人間にはたまらない詩型なのですね。
加えて、膠着語である日本語にはたくさんの助詞・助動詞というものがあって、単語どうしを膠(にかわ)でベタベタくっつける働きをする。漢文の小さな文字から独立したテニヲハ等が、品詞と品詞を見事につなぐ。他にも、優雅な・清楚なというふうに二字繋ぎの漢語に「ナ」を付けたり、「生意気な」に「小」という接頭語を足して「小生意気な」という趣きあることばを拵えたり、漢語+スル型の複合動詞を考案したり、「パニクる」「ミスる」のように英語に「る」を重ねたり……いやはや、器用というかユルいというか、融通無碍。おっと、芭蕉師にも「残暑しばし手ごとにれう(料)れ瓜茄子」という句がありましたよ。
言語社会学者の鈴木孝夫氏は、日本語を『半透膜なことば』と定義したが、このように一見無節操とも思える言葉ゆえにこそ、俳句形式の上では言葉と言葉をモンタージュしやすい。言葉どうしの波動によってネゴシエーションが起こり、深みが醸し出されるのです。一つの言語は一つの世界観を持っていて、言葉は伝達の道具である前に、その言葉を使う人々の文化そのもの。日本人お得意の何でも有り精神に、ま、ご一献……。
【次回予告編】現代ニホン語の問題点と俳句について
愚見を申し上げます。
パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
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