小 熊 座      2007/12 世界俳句 宇井十間
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小熊座表紙   

    


     世界俳句/国際俳句というパズル
        ―第4回世界俳句協会大会(2007年)をめぐって (下)

                                宇 井 十 間

 前回予告した通り、「世界俳句2007 (第3号)」から引用してみる。


  湖のかなた/大地は幸福そうだ/人々は戦争
                  カジミールドブリトー(ポルトガル)

  長旅/地図の/最後のひとめくり
                    ジムケイシャン (アメリカ)

  小さい白花/花びらに/銀河を溶かした
                   ジャンアントニーニ(フランス)

  海いっぱいの太陽/黄金ビーチに/老魚寝る
                   スチユンチョクト (内モンゴル)

  夜のあいだ霜/風景を書き直す/自由自在に
                 コルネリウスプラテリス (リトアニア)

  雪の結晶/心とからだ/別ならず
           ジャックガルミッツ (アメリカ)

  光と影の境に剣ずらりと剣         夏石 番失(日本)

  猫を屋根に月をひがしに我が夫      鎌倉 佐弓(日本)

  風を噛む波のたてがみ冬銀河       秋尾 敏 (日本)

  啄木鳥やこころの空の水たまり      湊    圭史(日本)

  穫り入れが終わり世界は影にすぎぬ   宇井 十間(日本、アメリカ)


 思索的な句、批評性を特徴とする俳句、抽象的な句、具象性に富んだ句など
多種多様であるが、総じて海外の詩人俳人の俳句は、句柄が大きく、表現が繊
細にみえるものでも発想は骨太なものが多い。一句目、カジミールドブリトー氏は、

ポルトガル現代詩の大御所である。引用句の批評性は、加藤轍郡の(死ねば野
分生きてゐしかば争へり)の句を想起させる。ジムケイシャン氏の原句は、むろん
英語であるが、俳句の古典的な技法を自在に駆使しているようにみえる。フランス
のアントニーニ氏の句は、いかにもフランス詩らしい愛唱的なウイットの句である。

内モンゴルのスチエンチョクト氏の句、内モンゴルには海がないこと考えれば、一
種の諧謔の句とも読める。来日講演が実現したばかりのリトアニアの著名詩人プ
ラテリス氏の句は、るいは、アントニーこ氏の句と似ているとも言えるだろう。

これも俳句の古典的な技法を利用しながら、独特の風景を画きだしている。とりわ
け興味深いのは、ジャックガルミッツ氏の句で、この句には切れの構造が見てと

れる。切れを含んだ俳句は、世界俳句ではやや例外的なもので、多くの海外俳
人は、日本の俳人とちがって、切れの作句技法をあまり用いない。掲出句、上五と

中七下五の間をどう関係づけるかは、むしろ読者の想像力あるいは論理性にゆだ
ねられている。これに続く日本の各俳人の俳句は、どれも比較的明快な句で、解
説の必要はあまりないだろう。中でも湊圭史は、次世代を担う現代詩人の二人。

その圭史の掲出句が、ほかのだれよりも俳句の骨法に忠実であるようにみえる
(本人は否定するだろうが)のは面白い。

 私はここまであえてそれに触れずにきたが、世界俳句/国際俳句をめぐるも
三の重要な主題に、俳句の翻訳という問題がある。さきに言及したバス氏と阿部

完市氏の俳句にしても、その意味性と身体性の程度は、それぞれの句の翻訳可
能性と表裏一体である。また、「世界俳句2007」から引用した俳句を全体として見

てみると、総じて翻訳の問題が比較的生じにくいような主題性の明確な句が多い
ことにあらためて気がつく。翻訳の問題は、単に言語だけの問題ではなく、それぞ
れの俳句/俳人のテーマ性、あるいは詩的方法論、表現技法の問題と切り離せ
ない。

 しかし、二棍的には、翻訳とは「言語(理解)能力」の問題と考えられている。だか
ら当該言語を読むことがでさえすれば、あとは機械的な置換操作によって翻訳は

成立すると思われがちである。そこには、ある言語がほかの言語に必ず翻訳可
能であるという暗黙の前提があるのだろうが、実際やってみるとわかるように、そ

んな保証はどこにもない。(われわれは、言語とは独立な意味というものがあって、
それを言語が表象しているだけだと考えてしまうけれど、言語と意味との関係はも

っとずっと込み入ってる。)要するに、翻訳可能性というのは、われわれがコミュ
ニケーションの便宜上つくりだしたフィクションにすぎ いのである。

 もちろん私はいつも自分の俳句を英訳とともに発表しているけれど、だからといっ
て、自分の俳句が簡単に翻訳可能であるとは考えていない。「詩とはその言語に

おける翻訳不可能な部分の総体である」という有名な定義があるぐらいで、詩の
テキストはもともと翻訳に適さない。俳句の翻訳に限ってみても、はっきりと成功し

ている翻訳はむしろまれであり、しかもそういう場合には、翻訳はしばしば原文と
別個のテキストとして成立していることが多い。自の英訳の場合、私は「英訳する」
ことをあきらめて、最初から英語で(同じ主題性をもった)別の俳句をつくるこにして
いる。そのほうがずっとうまくいく場合が少なくないからである。

 言いかえると、国際俳句/世界俳句の現場においては、誤解もまた翻訳可能性
の範疇に含まれる。私はさきに、バス氏やブリトー氏やガルミッツ氏などの句を、あ

たかも正確に理解しているように解説してみせたけれど、そうした解説そのものが、
誤解の集積でもありうることにつねに注意すべきである。言語の垣根を越えると、わ
れわれの内面の自明性は失われて、かわりに多様な意味の混淆が現れる。

いわゆる国際俳句/世界俳句の価値と可能性は、そうした雑多な思考の混淆を、ど
の程度肯定できるかにかかっている。



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