小 熊 座 2008/6 277号 小熊座の好句 
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          小熊座の好句       高野ムツオ
 

       花を見る花の奥なる闇を見る      越高飛騨男
   桜、ことに花の句を作ることは難しい。それは、花が、森羅万象の美の象徴で
  あり、古来、日本の詩歌に愛でられてきたことに、まず由来するが、言葉「花」が
  持っている意味世界の大きさ、広さにも理由を求めることができる。角川の『俳

  句大歳時記』の「花 の項目の解説で、長谷川櫂が「肉眼で見たのが桜、心の
  目に見えるのが花」と端的に指摘している通りだ。桜が植物としての具体性に
  重点を置いた呼び方で、花は、花に託する思いや美意識に重点を置いた呼び

  方ということである。例えば(見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の
  夕暮れ 定家)の花などは、「花」の意味性を十全に活用した好例ということが
  できよう。ここでは「花」はどこそこに咲いている一本の桜であるよりも、春の

  美の象徴としての「桜」なのである。最短詩型である俳句は、言葉の象徴化が、
  短歌以上に進みやすい形式。その象徴作用は、作者の意図とは別に、言葉自
  体の力としても発現する。季語「花」の難しさも、このことと深い関わりがあるの
  である。

   掲句も、その象徴としての言葉「花」の力を十二分に発揮している句といえる。
  「花」が美しいもの、はかないものといった、一般的な象徴概念の範疇でのみ使
  われるとき、その言葉は詩の言葉として生きて働いているとはいえない。作者の

  なりの発見を伝える言葉として使われるとき、初めて、その象徴効果は生きて
  働くといえよう。作者は「花」という命の輝きそのものの中に闇を発見したのだ。

  それは、周囲を包んでいる夜の闇ではない。花そのものが内蔵している間であ
  る。人々が花に浮かれ、喜び、歌う、まさに、そのただ中であるからこそ、その闇
  は深く、心をえぐる。その衝撃が「花を見る」という下五にこめられている。

     前立腺切除男に花吹雪         菊池乙猪子 

  の花は、もっと即物的。花吹雪の中に突っ立ったままの老人が見え、命の姿とい
 うものが見えてくる。自己卑下とも読めるが、私はそうはとらない。自己愛であり、
 命そのものの開き直りとも読めるからだ。諧謔は命のエネルギーと一体となったと
 き初めて本領を発揮するもののようだ。

     花小金井降り来て花は天に浮き     大場鬼奴多
 
  「花小金井」は地名であるが、むしろ駅名としての印象が強い。私は、同じ西武新
 宿線の井荻に一年ほど住んでいたことがあるから、この「花小金井」の駅名に、こと
 に愛着があるが、東京の外れの小駅の名と知るだけでも鑑賞は可能だろう。今は
 知らないが、降りる人もまばらな武蔵野の田舎の駅。

 そこで見上げた花が、この世のものではないように見えたのは、おそらく作者が青
 春時代に見上げた花と同じものであったからだろう。

    昔むかしあるところにも花吹雪     篠原  飄

    花散らす自ら幹を冷たくし       小野  豊


 前句のメルヘン、後句の鋭敏な感受も魅力的だった。





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