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2008年7月 小熊座の好句 高野ムツオ
誘蛾灯悪霊の声借りにけり 木村 えつ
誘蛾灯にお目にかからなくなって久しい。かつては田園の
どこにも見られた夏の夜の風物詩。私は高校生時代、汽車で
通学をしていたので、帰途、車窓からよく誘蛾灯を眺めると
もなく眺めていた。その青い光はどこか、この世の外のもの
のようにも思われて見飽きることはなかった。誘蛾灯は宮沢
賢治の詩にも出てくるから、その影響もあろうが、やはり、
誘蛾灯そのもののあり方にこそ、魅惑の根源はあろう。誘蛾
灯は、美しい灯で在ると同時に、虫を殺す、いわば殺戮の道
具である。そのギャップにこそ誘蛾灯の魅惑がある。もしか
すると虫たちも、その死の危険性を承知の上で灯に群れ集
まってくるのかもしれない。アンビバレンスの魅力ということ。
掲句は読みが二通りあろう。一つは誘蛾灯自身が悪霊の声
を発しているという読み。もう一つは作者自身の声であると
いう読み。俳句という形式の特殊性からいえば後者の読みが
自然だろう。いや、声を発しているのは、誘蛾灯であり、作
者であり、そして虫をも含め生きているものすべてなのかも
しれない。
われが我をはなれ即ち緑濃し 平松彌榮子
カルトや心霊主義者の世界では幽体離脱という現象があ
るらしい。生きている人間の体から霊魂だけが抜け出す現象
である。ホラーとして受けとるなら、たわいのない話に過ぎ
ない。しかし、人間の心が生み出す切実な現象と考えるとき
笑い話だけですまなくなる。実際、戦時には、戦地に赴いた
肉親の誰彼が、死の前に霊魂だけになって戻ってきた話は山
とあった。切実な願望が育んだ切実なエピソードなのだ。掲
句も、いわば幽体離脱だが、そのなんと健康的なこと。自分
を抜け出した自分が野や山の線そのものとなって遍在して
いるのだ。こうした生命感あふれる幽体離脱なら誰しもが経
験してみたくなることだろう。
悪玉御前悪とも見えず花あやめ 浜谷牧東子
悪玉御前は奥浄瑠璃『田村三代記』に出てくる主人公田村
丸の妻、別名立烏帽子、天竺から来た類いまれな美形で妖術
使い。達谷窟に住む大嶽丸をたぶらかしたりもした。『田村
三代記』は観音信仰とも深いつながりがあるから、観音堂の
ある石巻牧山にも、その木像が安置されているようだ。同じ
宮城の涌谷箆岳や松島富山も、この『田村三代記』の舞台。
悪玉御前にまつわる話は、他にもたくさんある。「悪とも見
えず」が浄瑠璃通りで、花あやめをその化身と見立てるのも
楽しい想像をふくらませてくれる。
逞しき蝿の群がる蘭丸忌 安藤つねお
蘭丸は本誌連載の小島ノブヨシの「孔雀の光」を参照。こ
このところ休載しているが旧号をひもといていただければ、
この句が俄然面白くなること請け合い。
黄泉と云う見た事もなき花の果て 篠原 飄
老桜マンモス隠れ立つ如し 俘 夷欄
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パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
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