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2008年10月 小熊座の好句 高野ムツオ
いくたりのわれのひとりに秋立てり 平松彌榮子
俳句に「我」を直接詠うことは、一般には敬遠されていることのようだ。
それは俳句形式の特質からして、ごく自然な 成り行きといえば言えよ
う。俳句は客観写生、俳句は即物、そして、俳句は一人称の文芸といっ
た考え方が、そのバックボーンにはある。しかし、これは、俳句形式の
特質を活かす効用上の考え方であって、表現の本質に関わることでは
ないl実際、客観写生を主導した虚子の俳句にも主観を駆使した名句は
数知れない。(冬晴の虚子我ありと思ふのみ)とか(目つむれば若き我あ
り春の宵)など直接「我」を詠った俳句もずいぶんある。
小熊座で、近頃「我」にこだわって俳句を作り続ける一人に平松彌榮
子がいる。七月号にも
われが我をはなれ即ち緑濃し 平松彌榮子
という作があって、作者の本意ではなかったろうが、「幽体離脱」などを持
ち出し粗雑な寸感を書いたばかりだ。
掲句の、いくたりの「われ」は、現在只今を生きている自分と読むより、こ
れまで生きてきた長い時間の中にさまざまに現れ、そして消えていった自
分と読むべきだろう。生きるということは、ただ単に一人の人間が老い衰え
ていくのではなく、何度も脱皮し変身し続けることだという作者の思いが
下敷きになっている。そして、今また新たに脱皮し変身した自分が、初秋の
新しい時間の中に立っているというのである。
この句の若々しさは、そうした精神性の瑞々しさに由来する。
「一人」といいながら、どこか決然とした強さが感じられるのは、そのせいな
のだ。
死はきっとここを通るよ韮の花 山田 桃晃
この句のポイントはなんといっても「韮の花」の斡旋にあろう。なぜ「韮の
花」なのか、その問いに作者はもちろん誰もが答えることはできないだろ
う。しかし、こう表現されてしまうと、もはや動かしがたいものとして、そこに
存在し続ける。それが俳句の言葉の力というものだ。
そして、そのことを肯った上で初秋の風が立ち始めた頃の白い韮の花を
思い浮かべる。まだ青々とした茎の頂きのその小花は、加美良(かみら)、
久々美良(くくみら)と呼ばれ、薬効とともに万葉の昔から親しまれてきたも
の。北国の生活には欠かせない貴重なものでもある。だから、作者も、おそ
らくは幼年の頃から、ごく身近なものとしてきたにちがいない。そして、その
身近さが、死という大事の通り道と作者に確信させたのである。確かに、誰
にも死は必ず訪れる。しかし、この日常のさりげない確信は、身近に韮の花
のように、そっと肉親の死が訪れた経験を持つ人であって初めて気づくこと
なのだ。
落鮎の行きつくところ生絹雲 下野 山女
は鮎を身近にして暮らす人の感慨。(落鮎の落ちゆく先に都あり 鈴木鷹夫)
とはまだ別趣のよろしさがある。
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パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
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