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小熊座の好句 高 野 ムツオ
秋雨の沈殿物にはかならず 我妻 民雄
前回、俳句における「我」の省略について触れた。そのこ
とについて、もう少し付け加えておきたい。それは俳句にお
いて、主語を省略できるということは、ただ言外に主語とし
ての「我」を想定できうるという文法上の利便性や簡略化と
いう効率面にのみ、その特質を認めるにとどまるものではな
いということだ。主語が省略されることで、読者が多様に主
語を想定でき、鑑賞が豊かになる面もあることを確認してお
きたいのだ。
かつて大岡信が高浜虚子の(初蝶来何色と間ふ黄と答ふ
虚子)を鑑賞したことがある。中で、大岡は、この句は成立
ちから言って、一義的には、「何色」と問うたのは他者で、
「黄」と答えたのは作者・虚子自身であるという一般的解釈
を踏まえた上で次のようなことを述べている。
しかしながら、句の言葉の意味を、文法的意識に従っ
て、「ほんとに馬鹿正直に読むなら(中略)初蝶が庭を
訪れた。私は蝶にむかって、汝は何色なりや、と問うた。
蝶は、黄色ですよ、と答えた。」という解も成立たないわけ
はない。
大岡は、かなり控えめに、これは句の切れを軽視した「解
などと呼べる代物ではない」とはいっているが、私には、俳
句構造とその解釈の、ある本質をついた秘密を示唆している
ように思われてならない。
掲句に直接関わりのないことを長々述べてしまった。しか
し、このことはこの句の解にいろいろ思いを巡らせているう
ちにふと蘇ったものでもある。「沈殿物」は、そのまま作者
自身なのであろうが、肉体を超えた作者の精神とも読める。
また、秋雨そのものが沈殿物であるとも読める。あるいは、
眼前に広がる森羅万象すべて。これも解として誤りとはいえ
ない。そして、堂々巡りの末、そういう読みの不安定感こそ、
実はこの句の内蔵している本当の魅力だと納得したのであ
る。
夏永しわけても団子坂の車夫 須崎 敏之
「団子坂」といえば、文京区千駄木の団子坂が有名。鴎外
や漱石の小説にも出てくる。しかし、この地名は、千駄木に
こだわることはなさそうだ。団子屋があった坂、転ぶと人が
団子のようになる急坂であれば、どこでもいい。今はもうな
い人力車引きの男の遠い夏。褥暑を生き抜いた、名もない男
の息吹が伝わってくる句ではないか。
靴紐のほどけ易さよ百日紅 増田 陽一
この句にも、前句と同じく、よくは説明できないが、ある
種の悲しみや孤独が澄み出ている。それは、もしかしたら、
私の脳裏に(新しき猿又ほしや百日紅 渡辺自泉)の句が
引っかかっているせいなのかもしれない。次の句にも、説明
不能の魅力がある。
帯ほどくとき曼珠沙華曼珠沙華 大西 陽
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パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
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