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2009/2 小熊座の好句 高野ムツオ
六林男忌の荒星はじく連結書 浜谷牧東子
鈴木六林男が亡くなってから五年が過ぎた。鬼房と俳句の
活動を長年共にしてきたため、六林男、鬼房の俳句の共通点
を指摘する人は多い。たしかに、それはその通りだが、資質
からいえばむしろ対照的であった。たとえば発想の仕方は鬼
房が情緒的だとすれば、六林男は理知的。鬼房が湿潤質なら
六林男は乾燥質ともいえる。現実生活でも鬼房が慎重だった
のに対し六林男は行動的であった。昭和五十五年になって、
西東三鬼の新興俳句事件スパイ容疑の名誉回復のため訴訟
を起こし、遂に勝訴したことなどは六林男の行動力を示す顕
著な例だろう。そういう六林男のあり方を掲句は実に的確に
とらえている。これから連なり出発するための連結音が、は
るか彼方の冬の星をも弾くというのだ。しかも、「連結音」
という言葉は、すぐさま六林男の「吹田操車場」と前書きを
施した六十句の大作を想起させる。
寒光の万のレールを渡り勤む 六林男
把り飛び降りるにも翼なし
凍天へ君の確かな連結音
社会性俳句は、社会性俳句を超えたとき初めて結実したと
いう逆説的な言い方は真実。この六十句にも佳句は少ないが、
表現者が自らが立つ場とは何処にあるべきかという原点を
示しているという点で、これらの俳句は、平成の今も十分価
値がある。この句の連結音は、その象徴なのでもある。
朝市のここにも婆の股火鉢 菊地 巴洸
この句を読んでとっさに思い出したのは
左義長や婆が跨ぎて火の終 石川 桂郎
の句である。共通しているのは「婆」が主役であることと、
その股座に赤々とした火が燃えていること。それも、景気は
よくないが、まだ十分に熱い。と、ここまで書けば、この
「火」は何の喩であるか、想像いただけよう。しぶとく、し
たたかな生命力。それが、この二句に共通する魅力の源泉な
のだ。日本的エロスの世界といってもよい。
冬星の一つを加え齢とす 松本 廉子
同じ生命力でも、こちらは趣をまったく異にしている。加
齢とは衰えることではなく輝くことだと主張している、その
すがすがしさがあふれている作品。
林檎買う岩手に小鼻ほど入り 平川よし美
鼻は、もともと端と同意であって「はじまり」「先頭」を
意味するとともに、岬など突き出た形状を指す働きもする。
だから、この句の「小鼻」は岩手の端に、ほんの少し入った
ということだろう。しかも、どこかに、岩手に入ったという
うれしさとともに、ぎこちなさを感じさせる。それも、また
「鼻」という言葉がもたらすユーモラスな効果である。作者
もまた、懐かしい岩手に久しぶりに来て、林檎同様、顔を赤
らめているといった風なのだ。言葉は多様で微妙な働きをす
る、その好例といってもよい句だ。
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