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2009/4 bQ87 小熊座の好句 高野ムツオ
かくれわざ鴉に無くて春時雨 木村 えつ
「かくれわざ」という言葉は辞書にはない。少なくとも手
元にある広辞苑や大辞林には記載されていない。しかし、メ
ディア上ではたびたび耳にしたことがある。にも関わらず記
載されないのは、意味が、まだ不安定な未成熟な言葉という
ことだろう。例えば、料理の番組などでよくこの言葉を耳に
する。しかし、ここでは「隠し味」と同じような意味で使っ
ているわけで、新語としての意義はほとんどないということ
だろう。また、パソコン用語としても普及している。人に知
られていない高度なテクニックを用いて、パソコンの機能を
最大限に発揮させることだろうが、これもまたあいまいとい
えようか。
情報社会と呼ばれる昨今、マスコミ上では流行語を始め、
若い世代間でだけ通用するさまざまな用語などが大手を
振って歩いている。そして、それらの言葉の大半は、どんな
意味を担っているのか判断さえできないうちに消えてしま
う。もちろん生き残って、日本語としての認知を得るものも
ある。昨年改訂された広辞苑の第六版にもそうして市民権を
獲得した言葉が多数載っている。「猛暑日」や「道の駅」な
どは俳句でもよくお目にかかる。確かに「猛暑」には「極暑」
や「薄暑」とはまた違ったニュアンスがあるが、「猛暑日」
はどうだろうか。「道の駅」も各地の観光振興を担って普及
してきた言葉だが、俳句に使う場合は、まだそのイメージが
、
今ひとつ定着しないきらいがある。俳句における言葉の定着
の速度は、一般社会のそれよりも、はるかに遅いともいえよ
うか。
それでは辞典にも載らない、また載ってまもない言葉を俳
句で、けっして使ってはならないのだろうか。確かにそう主
張する人もいる。それは、これまで述べてきたことからも一
理あるが、「俳譜の益は俗語を正す也」という「三冊子」の
芭蕉の言葉も思い出すべきだろう。芥川龍之介の言い方に倣
えば、言葉に魂を入れることができれば、俗語もまた詩語と
なるのである。
掲句の「かくれわざ」は料理やパソコンのそれとは、かな
り次元を異にしている。それは「隠れ」という言葉が「秘密
のもの」という意味合いとは違っているからだ。ここでは
「この世から離れる」さらには「この世から消える」という
意味合いで使われている。そう思って読むとき私の脳裏には
芭蕉の(枯れ枝に鳥のとまりたるや秋の暮)が蘇り、エド
ガー・アラン・ポーの詩「大鴉」の姿が顕れてくるのだ。こ
とに荒涼とした、この世を眺めることだけが存在する証であ
るかのような芭蕉の「烏」。この鴉は「かくれわざ」さえ拒
絶しているかのようである。そして、木村えつの「春時雨の
鴉」の句は、この墨痕だらけの芭蕉の句に、数滴の薄紅を点
じて唱和したのではないかとさえ思えてくるのである。
塒なぞ幾らもあると寒鶉 阿部 流水
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パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
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