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2009/5 bQ88 小熊座の好句 高野ムツオ
はくれんを神と信じるまで老いぬ 上野 まさい
「はくれん」は白木蓮の別称。俳句だけの呼び方ではなさ
そうだが、無理に省略した印象があって、あまり好きになれ
ない呼称だった。中国原産のコイ科の魚にも同様の名がある。
一般的には、こちらの方が知られているようだ。この言葉が
白木蓮を指す言葉として自然に受け入れられるようになった
のは
はくれんは生まれる前に咲いてゐし 山本 洋子
に出会ってからだろう。あとで知ったが、初案は「生まれる
前も」であったという。これもまた魅力的な句のありようだが、
個人的な感慨の側面が強くなる感じがする。
それに対して掲出の表現の方が、白木蓮の咲き方そのもの
の本質をとらえていると思うのだ。「はくれん」とは、いつでも、
どこでも人の誕生の前に咲く花のことなのだ。
その「はくれん」が人が老いるに従って、しだいに誕生以前
からの花ではなく死後の花として意識され始める。自分の
死を予知し、その死を見守り、死後の世界へ誘ってくれる花
と言うことだ。そうした視点から生まれたのが掲句。「老い」
の意識の発生は、実際の年齢とは必然的な関わりはない。
何歳で意識するにせよ、その時々に見えてくる老いの世界
というものはある。俳句を作ることは、その老いの意識その
ものを、生きる活力、蘇りの力とするということだ。
寝返りを打つたび春は近づけり 下野 山女
読んだ瞬間、頭をよぎったものは二つ。一つは鬼房の
きさらぎは海老寝のほかに寝やうなし 鬼房
もう一つは森敦の「月山」。吹雪の間、和紙で作った蚊帳
の中で寝起きする主人公の姿だ。作者が山女と知ると、
これはどうしても「月山」のイメージの方だろう。
言い古されたフレーズだが、人はことごとく、この世を過ぎ
ていく旅人。寝返りを打つのも、その営為の一つということだ。
嘶いてまた春泥をかがやかす 武田香津子
「嘶く」だから、当然馬だが、句からは巧妙に馬の姿が消
されている。そこが、この句の魅力。眼前に見えているのは
嘶きのたび光を増す春泥のみ。
そして、その春泥の輝きが最高潮に達すると、春泥から、
突如一頭の馬が躍り出てくるのである。省略がもたらす
想像喚起の力というもの。
くぢら肉つめたし一つ星昏し 津高 里永子
冷凍が融けかけた鯨肉の黒い塊。底の方から血が流れ出し
ている。「つめたし」は舌触りかもしれないが、その塊に手で触
れたときと受け取りたい。
折から、鯨が生きて悠然と海を泳ぎ回ったときと同じ一番星
が出ている。その光を「昏し」と感じるのは、人間の食料と化し
た鯨の肉の何ともいいようのない悲しさ、冷たさゆえなのだ。
朧夜や魚食ふ魚を食ふは吾 渡部州麻子
これも同様のテーマの作だが、こちらの方が思念的。ど
ちらの句がより味わいが深いか、そういう試食会なら一晩
かけて行っても、鯨も魚も賛成してくれるだろう。
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