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2009/7 bQ90 小熊座の好句 高野ムツオ
老いの前永く置かれし粽かな 山田 桃晃
俳句は物に語らせる詩であるという。物それ自体の存在感を
最大限に生かすということだろう。しかし、物には、さまざまな
呼称があり、その人の認識のありようによって、さまざまなとら
え方ができるわけだから、正確を期すなら、言葉によって認識
された「物」ということになる。その言葉によってとらえられた
「物」は、単独では、何事も語り出さない。語り出す可能性として
のみ存在する。「物」が雄弁に作者の語りたいことを語り始める
ためには、十七音の他の言葉が、どのように、その物を限定し、
語る方向を定めるかということが肝要になる。それは多くは
空間として、もしくは時間としての限定であり、方向である。
俳句表現とは、いわば、物を名指す言葉の沈黙を解き放ち、
その語りの扉を開くことともいえる。その沈黙を開く鍵は、作者
という主体にあるのは、いうまでもない。
この句の「粽」に与えられた限定は二つ。ひとつは「老いの前」
という空間的限定。もうひとつは、「永く」置かれていたという
時間的な限定である。「老い」とは作者自身のことだろうが、
「老い」という多くの人が経験するであろう時間そのものとも
解することができる。何度も読み返すと後者の意味合いが
しだいに重さを増すのに気づくのだが、食べ物としての粽が、
しだいに作者の内なるものを象徴する存在に異化していくのに
気づく。どんなものに異化するか。それは読者それぞれの自由
というものだが、粽が子供の息災を祈って食べられたもので
あるという記憶や、有名な屈原の故事などを重ねることで、より
深みを増すだろう。どこかに作者の精神的饑餓、老いの孤影と
いうものも揺曳しているようだ。これも「粽」という言葉の力である。
蛇苺負の系譜なり野に沈み 佐伯 秋
この句の「蛇苺」の存在感はどうであろうか。蛇苺は蛇が好み
そうな湿地に自生するからとか、この実を好む小動物を蛇が
狙いに来るからといった理由で付けられた名だそうだが、この
名があるため、本来は、可愛らしい花と実を付ける植物が、毒
でも持っていそうないかにも不気味な植物と人間に誤解される
ようになってしまった。これは言葉が、その物の存在感まで限定
してしまった好例だろう。その存在感を、虐げられた民族の歴史
と重ね合わせることによって、また、新しい蛇苺のありように止揚
したのが、この句だ。蛇苺の美しさ、強さがこの句によって名誉
回復されたといってもよい。
ゆく春の円空仏と蕎麦団子 阿部 菁女
逝きし人に簾一枚吊るしあり 柳 正子
の「蕎麦団子」や、「簾」にも同様の物の力を感じる。季語にかか
わらず、こうした力を言葉は内蔵しているのである。
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