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2009/9 №292 特別作品
転生
かつて長年連れ添いしR・Mを悼む 土屋 遊蛍
朧夜のよもつへ尖る鼻の先
転生の鬣捜す朧の手
春暁の夢抱いてゆく手負い獅子
補陀落は陽炎の奥急ぐなよ
竹皮を脱ぐや柩の胸濡らす
山椒魚この世は少し塩からき
柩出す百のてのひら青時雨
咲き終えて夢に入りたる酔芙蓉
来世また風の旅人青しぐれ
終末へ向かう科針恋蛍
奔放に生きて薔薇より濡れて逝く
平坂へ影を重ねて母子蝶
転生も青葉時雨の阿修羅の子
朧夜の来世を開く鍵の音
身の軽くなるまで泣いて夏椿
黄泉へ行く為の盛装大あげは
戒名の星の一文字青葉騒
朧夜のベッドに沈むムー大陸
緑陰の骨の火照りを額に受く
男逝き二十一年五月果つ
梅雨の猫 土見 敬志郎
青葡萄たわわに内科診療所
葬り来て紫陽花の毬眼に重し
山繭に籠る水音谷の昼
ゆったりと日暮を余しえごの花
水音の力抜きたる谷卯木
雨粒に老鶯の声溜りゐる
七月の水に木の影定まりぬ
一粒の桜桃食めば昭和かな
瞳孔に梅雨の月上げ猫眠る
水底に鉄魚の影や梅雨上がる
緑夜なりものの怪姫の眠る刻
深緑の夜をくぐり来る水の音
万緑や土間に眠りし火消壺
万緑や身体髪膚水音す
図書館の蔵出しの書と稲光
滝音を天啓として不動尊
遥かより潮騒のあり木下闇
海彦の声黒南風に乗り来たる
真夜中の貝風鈴が潮騒す
頭中に草の生え来る昼寝覚
麦秋 菅 邦子
麦秋の轍スコットランドまで
麦秋や何時も誰かを追ひかけて
麦秋の船は木の船呼び寄せん
甦る父祖の地春の切株に
切株は泣く弟が待つところ
春雪嶺うすむらさきに眠りおり
夕月は菜の花畑の櫂である
胸鰭で啼く魚あるや春の潮
蛍の夜幼き姉にひしと蹤き
あやふきは蛍の夜のかみかざり
ほうたるの水のみ父は失せにけり
夏大根ひそかに千津を待ちゐたり
今書かねばならぬ一文夜の蛙
中空に這ふ青蔦のアラベスク
縁とは共に滴ることである
羽抜鶏道化で通すことにする
天安門ニュースも遠し更衣
身に添はぬものは捨てたし更衣
殻のかたちで眠る他なしかたつむり
哲学の道奥はおたまじやくしの池
礫 須崎 敏之
霧山河血は寒色を燃しながら
霧か雨か碓氷峠の植田水平
霧の気流耳を圧し青碓氷越え
青山在り大糸線の乾いた吹鳴
大糸線双灯は羽化始めの眼
梅雨霧の重さは殊や信濃葺き
生まれ変わりても蛙よと信濃よろし
信濃蒸す祖霊の鈴の青胡桃
道祖神睦む梅雨暗塩の道
竹煮草翩翻土に帰す日見え
乳川は乳房川へと蝶もつれ
梅雨照りの餓鬼岳の道背筋とす
青春の縦走路あり流星痕
信濃四谷は遥かな広場天の川
天懸かる雪形爺を鑑とす
星になりたい大雪渓の一露岩
雷鳥の夏毛の鬱を着始めたり
礫にこそ咲く駒草のたましいが
雲間にて雪渓は痩せ老は田に
扇状大地桃袋掛け声もあらず
一刀両断 阿部 宗一郎
老梅がこぼるる妣がきています
散る花をさだめと逝きし君の道
崩るるもなお緋牡丹でありにけり
身から出た錆よのうわさ椿落つ
白萩の白狐すっくとたそがるる
かわたれぞ茄子置いてあり厨口
蝸牛君が忘れた速度です
初トマトがぶりいのちの音を聞く
桜桃を太宰の忌とは頷けず
一刀両断妣の包丁西瓜割る
梅はこぼるる桜は散る、牡丹は崩れて椿落つである。たそがれは誰れ彼で、
かわたれは彼は誰だ。先人は言霊とまで言って、この国の言葉はコミュニケー
ション機能だけではない魂がこめられているとした。その霊や魂の根源がこの
国の四季自然である。この国の詩(うた)のはじまりが、他の国のほとんどがそ
うであるような人間対人間の詩ではなく、人間対自然で始まっているのはまさに
ここにある。
近年、経済のグローバル化などの嵐にあおられ、俳句も国際化をと、それが
いかにも現代的な活動と錯覚している風が吹いてるが、漢詩は漢字でなければ
書けないように、俳句は日本語でしか書けない詩である。英独仏語でどう書いて
みたところでそれは短詩または一行詩にすぎず俳句ではない。
片や、てふてふを捨て切れぬ伝統俳句界、片やあやしげなハイクなどと遺伝子
組み換えの現代俳句界、いずれもアイデンティティを見失ってる現代日本を象徴
する光景である。
(宗一郎)
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パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
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