2009/10 bQ93 小熊座の好句 高野ムツオ
むかさりや五万の黒き蝶の翅 阿部 蓄女
「むかさり」は嫁入り、結婚を意味する方言。語源ははっきりしないが「迎去」とも
「向かう」の変化とも考えられている。南東北地方でかつてよく使われた言葉で、長
野や山梨でも、同様の方言があったようだ。この言葉は、今では「むかさり絵馬」と
して残っている。「むかさり絵馬」とは、江戸時代あたりからの山形地方での伝承。
あの世の結婚式を描いた絵馬のことである。思わぬ厄災に遭い、結婚することなく
亡くなった若者を供養するため、現世で果たすことができなかった婚礼のさまを描
いた絵馬を奉納するのである。つまり、「むかさり」とは、冥婚、あの世での結婚の
ことでもある。
この句には、「戦没学徒に」という前書きがある。だからここでは、先の戦争で犠
牲になった若者を慰撫するための、仮の婚礼という意味だ。その叶うことのなかっ
た、悲しい祝いの席に、無数の黒い蝶が馳せ参じたというのだ。無論、この蝶は、
若者が死んだフィリピンやニューギニアの孤島に生息する蝶。彼らは、その若者の
架空の婚礼のため、遠い海をはるばると超えて、この島国にたどり着き、今地面を
埋めつくしている。南の蝶の生態からいって、「五万」は、決して誇張ではない。何蝶
か、その種類は定かではないが、「黒」はむろん喪服のイメージ。ことごとく、悲しみ
の翅を広げ、そして、息づいている。そのさまに私は言いようのない衝撃を受ける。
八月のまわりの死者のなかに老ゆ 越高 飛騨男
朝顔の双葉となりし頃被爆 高橋 正子
広島の川面瞬く原爆忌 足立みつお
青空がこわいと思う原爆忌 中鉢 陽子
なども、戦争の悲しみを、現在の視座から伝えている。
みちのくへ舌伸ばしくる梅雨末期 阿部 流水
「梅雨末期」という時期が舌を伸ばしてくるというのだから、本来は、もうすぐ梅雨
明け。盛夏の期待感にあふれるはずだが、この寒々とした体感はどうであろう。私
の独断かも知れないが、それは、この舌が「やませ」を連想させるからだ。匍うよう
に吹いてきては冷害をもたらす恐ろしい風のイメージ。そう思って読み返すと、今度
は「末期」を「まっき」ではなく「まつご」と読んでしまっている。これも作者の仕掛けだ
としたら、私はそれにまんまとはまり込んだことになる。
水引草気配を花にしてゐたり 我妻 民雄
水引草は、私の印象では、咲いていること自体を隠しながら、岩蔭や崖下に人恋
しげに揺れている感じ。そうした佇まいを的確に言い止めたのが、この句だ。
毛の国の一番奥に樗の実 山野井 朝香
これも、樗の実なればこその句といえよう。関東の広い空が見えてくる。
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