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 小熊座・月刊 
  


   2009 VOL.25  NO.294   俳句時評


      思考する俳句         佐藤 成之

  言語は心から生まれるが、発せられた言葉は再び心に返って理解される。心から言葉

へ、そして言語から心へ、と
いうサイクルは、言語の作用がその作用を行う心自身に返って

くるという意味で、再帰的(reflexive)である。こう
述べるのは中公新書『「言語の脳科学』の

著者・酒井邦嘉氏
である。言語とは「人間が音声または文字を用いて思想・感情・意志など

を伝達したり、理解したりするために用い
る記号体系。また、用いる行為。ことば。」と広辞

苑にあ
るが、それは人間のみに備わった能力なのである。動物の認知能力のように、言語

化を必要としない心のはたらきが
あることはすでに明らかだが、言語と心を比べたら、心の

方がはるかに広い現象を含むのだ。実際、言語化できる心の部分はごく一部分にすぎず、

言語化の能力に個人差が大
きく現れることは、言語化されない思考のはたらきも存在する

からだと言われれば納得するしかない。


  心は脳のはたらきという生命現象の一部であるという。
そして、言語はその心の一部で

あるのだと。私たちは、常
に言葉を使って心の中で物事を考える。しかし、言葉では言い表

せない思いというものもあるのは確かだ。だから、
>心>言語という図式の成立は正しい

といえるだろう。
筆者によれば、言語のはたらきは、「知覚−記憶−意識」という心のはたら

きと関わり合いながら、脳のシステム
(体系)に組み込まれている。が、知覚−記憶−意識

のそ
れぞれとの間に双方向の情報のやりとりがあり、再帰的に心のそれぞれの要素と関

わっているのだと。また、言語化
の過程そのものは無意識的(自動的)に行われるが、言語

において、無意識的なプロセスが意識的なプロセスを生み出すのか、またはその逆なのか

がわかっていないというこ
とに、今後十分注意していきたいと思う。


  では、私たちが取り組む俳句とその関係はどうであろ
う。大雑把にいえば、俳句は心か

ら生まれるが、発せられ
た言語は再び心に返って理解される、となるだろう。この場合、言

語というより、それを表現するものとして言葉と
いった方がより適切だろう。それは、自分自

身との対話で
ある。思考とはひとりで行う無言の仮想的対話だが、頭=心の中に浮かぶイ

メージを文字によって具現化するのが言
葉なのである。もちろん、文字によって仮想的イメ

ージが
発現することはある。広大な心の一領域である言語機能。その中の一分野である世

界最短の定型詩は、創作過程にお
いて間違いなく前述の再帰的工程をたどるのだ。目や

耳や
外界から取り入れる情報は、感覚器官を通して言葉を入力する。あくまで意識的な言

語化は認知と同時に記憶を呼び
出し、意識に働きかける。情報を処理し、感情を整理し、

心の中央にまっすぐな思想を立たせて一句を完成するのだ。言語化されない思考のはたら

きに直感や勘といったものも
挙げられるが、実は過去の体験や経験、知識がそのもとに

なっていることも少なくはないだろう。生まれながらのセンスは仕方がないが、それだって磨

けば少しは光るのであ
る。だから、努力は欠かせないのだと思う。さて、本文に戻れば、言

葉は、音声や文字などのパターンとしてすでに
記憶されていて、解釈されるという。記憶が

なければそも
そも言語は成立し得ないというのは、当然のようで鋭い指摘である。さらに、

一般に、言語はコミュニケーションの
ための手段だと考えられているが、言語のはたらきは

それ
だけではない。言語を手段として使うという命令そのもの(言語化の意志)が言語の能

力によって支えられている
ことを忘れてはいけない、というのだ。言語とは、心の一部として

人間に備わった生得的な能力であって、言語要素
を並べることで意味を表現し伝達できる

システムであると
結論している。


  「言霊」という呼び方があるように、言葉には計り知れ
ない力がある、歴史がある。心が

言葉を生み出すとすれ
ば、それは脳で決まっている。脳によって決まった言葉しか使えない

ことになる。だが、脳にこそ無限の可能性が詰
まっているのだ。「言語を持つ心」はあっても

、半分以上
眠ったままで実力を発揮していないのではないか。自ら俳句という言語形態を

志したなら、言葉も心も脳みそもとこ
とん鍛えてみたいものである。言葉は生きている。時

代も
私たちもみんな生きているのだ。それを生かすも殺すも人間次第。だからなおさら、言

語化できないあらゆるものを
意識的に十七文字の言葉に掬い上げてみたいのである。


  俳句の心はどこにあるのか。定型という骨格を人体とすれば、それは作者の心に等しい

。自己の一部分と考えれば
もっと大切にすべきだと思えてくるだろう。人格は脳にあるとい

われれば、俳人格もそこに落ち着くしかない。思考
とは自分との特殊な対話と先ほど書い

たが、それは他人と
の対話と変わりはない。なぜなら、言葉とは社会的なものだからである

。創意といっても、常識を逸脱した発想や言
語の発露は認められることはないのだ。私と私

の間に媒介としてあるのが言葉だが、他者との有効な対話によって、はじめて思考はまとも

に実現されるのである。それゆえ、
作品を作る場合にも、必然的に第三者の存在が意識さ

る。私があの曰の自然と対話し、感動を文字に置き換えて再生したように、読者はそれ

と対話しては心の中のフィー
ルドに再現する。ある時は心の余白に言外の思いを投影し

。「言語は心の一部である」がすべてではない。だが、
一部を理解することによって、人間の

心の仕組みをわかる
ようになるのだろう。やさしくなるのだろう。言語化されなかった感覚が

、何かのきっかけでひとつの形になったと
き、作者ですら驚くことがある。思考という行為の

産物
は、思考することを止めない。世界に散らばる幾億千という瞬間が言葉に結び付いた

とき、脳みその皺よりも深い印
象を刻む。俳句として生まれた喜びを思考するのだ。



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