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小熊座・月刊
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2010 VOL.26 NO.297 俳句時評
『新撰21』の行方 渡辺 誠一郎
「俳句は少年と老人の文学」といったのは三橋敏雄だが、今や俳句は確実に齢を重ね
た晩年の世界のものになったのはだれもが認めるところだ。他方、少年を青年に置き換え
るにして、若い世代についてはどうだろうか。
かつて若者は荒野を目指すといった言葉が流行った時代があった。〈荒地〉という言葉
が現実味を帯びていたこともあった。荒地は今や開拓し尽くされたか、人工衛星から地上
のものが数十センチ単位で判明されるようになったことで、もはや未知の世界ではなくなっ
たのかも知れない。近頃は海外留学や海外旅行へ出かける日本の若者の減少が目立つ
らしい。若者の「内向化」が急激にはじまったのだろうか。
俳句の世界では、「俳句甲子園」や芝不器男賞の創設など、若い世代が登場する舞台
が少しずつ拡がりをみせているものの、俳壇全体に影響を及ぼすまでは至っていないのが
現状だろう。
このたび、四十歳未満の俳人二十一名による、自選百句と作句信条収録した『新撰21』
(邑書林)が刊行された。あわせて、四十五歳未満の俳人達による、収録された俳人の作
品小論の書き下ろしが掲載されている。編集は筑紫磐井、対馬康子、高山れおなの三人。
何人かを取り上げて、感じたところを書いてみる。
小野裕三は、収録された最も若い越智友亮(一九九一年・平成三年生まれ)の作品に
ふれながら、若い世代が目指すべき世界は、虚子の作品と対比させながら、かつての戦場
を離れて戦争をモチーフにした「戦火想望俳句」に対する、「俳句想望俳句」と位置付けてい
る。俳壇の歴史から自由にある立場であるゆえに、俳句を正面から「まさらな目」で見ること
が出来た高浜虚子の世界に重ね合わせようとするのである。
銀河西へ人は東へ流れ星 虚子
流星やドロップや海静かなり 友亮
確かに時代は、あらゆるものから自由になったといっていよい。それゆえ関心がなけれ
ば外へ出て行く必要はないし、胸奥深く沈潜する事だって可能な時代になった。しかし、今
日の俳句表現の成果は最初から歴史から無縁のなかで成立したのではなく、血みどろの
言葉の爪書きの結果でしかないことも忘れるべきではないだろう。
一九八五年生まれの山口優夢は、俳句甲子園に参加し、〈小鳥来る三億年の地層かな〉
の作品で優勝をさらって注目された。山口は収録作品の一句目に、無季の〈真つ白な塔あ
り長き晩年あり〉を置いている。「一句の向こう側に生々しい世界が広がっているという戦慄
を、その句を読む者に感じさせたい。名句とは慄きであると信じている。」との作句信条を明
かにしているが、無季の世界にも軽やかに身を伸ばすことに驚いた。
台風や薬缶に頭蓋ほどの闇 優夢
優夢の世界は、上手さと同時に、早くも老成の匂いが気にならないわけでもない。優れ
た才能は時として、どこか老いの影を隠しているのものであるからだ。
婚約とは二人で虹を見る約束 優夢
心臓はひかりを知らず雪解川 優夢
と同時に、自己愛の甘さと感覚の明敏さとを同居させているのも事実。
蠟製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ 関悦史
一見シュールの世界かと、作品に身を入れようとするのを踏みとどまり、あらためて句を
読むと、街の食堂の入り口によく飾ってある、樹脂製のメニューの食品を捉えた世界。鮮明
なリアリティさが現代版諧謔性を発揮して、読む者を泣かせる。一九六九年生れの関悦史
は、その他、「介護」の日常の世界を不気味さの寸前で止めながら、演劇的虚構性をまとわ
せて作品化するところが魅力だ。
ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり 悦史
祖母がベットに這ひ上がらんともがき深夜 悦史
その他、WTCビル崩落など、時事のテーマにも取り組んでいる。
多くの死苦の引掻傷のある夏天 悦史
季語の窮屈さを感じさせずに、モチーフの確かさがそのまま作品世界を作り上げること
に成功している。
今回の人選については、編者も述べているように偏りがあるとのことだが、若い世代の
作品の多様さと多彩さが十分に楽しめる。
表現世界においては、何を表現するのか、何を詠むかと常に問われ続けてきた。これに
対して、俳句世界にあっては、何を詠むかという問いそのこと自体が、形式そのものへの
〈懐疑〉を常に含む歴史であった。そこから、新興俳句や社会性俳句、前衛俳句などの〈も
がき〉の成果が残されたのだ。
翻って、今回の若い世代の俳句世界を見るに、形式の懐疑性は希薄のように感じられ
た。やすやすやすと俳句という道具を駆使しているような印象だ。信頼とも違う、〈所与〉の
存在としての俳句が、まずありきの世界のようだ。それはそのままテーマ性の希薄さに繋が
っていくように思える。言葉は齢を重ねるとリアリティを深めるゆえに俳句は老人の文学な
のかもしれない。それでは俳句表現の世界における若い世代の居場所があるのだろうか。
このことは、混迷を深める現代などと簡単に括れない時代の裂目にあって、若い世代のみ
ならず、われわれ一人一人に突きつけられている現在でもあるのだ。
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