小 熊 座 2010/2  bQ97 小熊座の好句
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      2010/2  bQ97 小熊座の好句  高野ムツオ


     墓標とも冬の背高泡立草          大澤 保子

  個人的なことになるが、昨年十二月の「街」とのコラボ句会に参加した際、私は、

      我々も霜の背高泡立草           高野ムツオ

というのを出句した。ただし自分自身に〈霜を被り背高泡立草菩薩〉というのがあった

から、また「霜の背高泡立草」かと心に引っかった。しかし、発想が異なると思ったので

まずは投句した。私は、このことより「我々も」という表現の可否にとらわれていた。「我

々は」なのか、また「我々」で世代を超えた理解が得られるか。しかし、帰りの新幹線の

中で、〈団塊の世代汝は背高泡立草  秋元幸治〉というのがあったのを思い出した。

十一月の栃木吟行会に出句されていたものだ。発想がよく似ている。異なるのは秋元

の句が背高泡立草を「団塊の世代」と断定しているのに対し、私の句は、どの世代な

のかは読み手に任せられている点だ。しかし、どうしても、類句のそしりを免れない。そ

う思っていたら、栃木句会に同行した佐藤成之から私の心配と同じ指摘があった。や

はり、秋元の句が下敷きとなって私の句が出来てしまったのだと納得した。類想類句

の問題は、よく俳壇を賑わせる。判断に難しいケースもずいぶんある。鬼房に、

      人間をやめるとすれば冬薊        佐藤 鬼房

という句があったが、句集『半跏坐』に収録後、楸邨に、

      人間をやめるとすれば冬の鵙       加藤 楸邨

があるのを知って、自作から削除した。確かに「人間をやめる」という発想は、この二句

に限ったことではない。実際、ネット上のコメントにも「人間をやめるとすれば」の次に、

「あなたなら何を入れるか」というものがあった。百人百様の答えがあろうし、その数だ

け俳句も産まれそうである。「冬薊」は鬼房らしいし、「冬の鵙」はなるほど楸邨。どちら

も佳句と思いながら、鬼房の潔さに感銘したことを覚えている。類想句ができることは

詩型の特質上、やむを得ない。大切なのは作者自身の判断だろう。たとえ上五中七が

まったく同じでも、異なる新しい世界を創出することだってもちろんあるわけだ。

  大澤保子の句の感想をうっちゃったまま、思わず余計なことを書き連ねてしまった。

この句の「冬の背高泡立草」も、これまで何度も使われたフレーズに違いない。それを

承知の上で、私は、「墓標とも」の把握は、やはり独自であるといいたい。しかも、これ

は陸奥、荒涼たる台地が連なる岩手であって、より、その姿が見えてくる。私も三十年

ぐらい前から何度か「背高泡立草」の句を作っているが、納得できるものはほとんどな

かった。この句を見て、この長ったらしくやっかいな草花の名も、やっと俳句の言葉とし

て定着したと感じた。




  
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