2010/3 bQ98 小熊座の好句 高野ムツオ
野仏の一円玉に大初日 浪山 克彦
まだ、俳句の力について感慨深げに振り返る齢でも俳歴でもない。しかし、この頃俳
句における言葉の力の不思議さについて改めて再確認する思いにたびたびとらわれ
る。
一月に催されたNHK全国俳句大会でもそれを感じた。自分が特選にとった句を俎
上にするのは、ちょっと気がひけるが、私の特選句のうちの一句は次のようなものであ
った。
人参にある太陽のやうなもの 中野 里梢
うっかりすると見逃してしまうような単純な作品だ。人参と太陽の取り合わせといい、
一気呵成の直喩といい、口語表記なら子供の俳句と勘違いしてしまうぐらいだ。おそら
く輪切りにした人参の中心部が黄色になっていることからの発想だろう。しかし、「やう
なもの」とはあるが、何度も繰り返し読むうち、この句の太陽は、人参の中にすっぽり
入ってしまった映像を眼前に映し出す。地球の三十三万倍の質量が小さな人参の輪と
化してしまうのである。ここには、どんな神通力もかなわない言葉の玄妙な威力が働い
ているのだ。
それは、浪山克彦の句にもいえる。何、単に一円玉に初日が当たっているだけじゃ
ないかという人もいるだろう。確かに、その通りではあるが、十七音しかない言語空間
にたったそれだけが表現されているという事実が、やはり、私には初日がそのまま一
円玉の中に入ってしまったかのような印象をもたらす。いや、俳句形式の力のみでは
ない。作者は用意周到に「大初日」と「大」の修辞を添えている。作者自身に始めから、
一円玉の中に初日を閉じこめようという意図があったのだ。しかも、野仏の御許、なら
ば、この一円玉はおそらく、こののち独りでに浮き上がり、野仏の背光となって我々を
照らすだろう。
こうしたミクロとマクロ、瞬間と永遠、それらを同時同次元に現出させる力が俳句に
はある。そうした言葉の力について再確認するとともに、もっと自分も生かさなければと
反省したのである。
雪の降るとりわけ母座声の澄み 澤口 和子
この句も、俳句ならではの力が働いている。散文で表現すれば、母座に坐っている
人の声ということになるのだろう。しかし、ここでは、あくまで母座の声、母座そのもの
の声なのである。そして、そう読むことで、何百年も囲炉裏端に座り続け家を守り続け
てきた無数の母の声が聞こえてくるのだ。
土壁のかたちに冬の来ていたり 小笠原弘子
下野の葦は枯るるに飽きてをり 中井 洋子
湯湯婆の蛇腹に触れている思郷 平川よし美
これら土俗の匂いに満ちた作品にも、それぞれのありようで、俳句の言葉の力という
ものを感じた。
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