2010/4 bQ99 小熊座の好句 高野ムツオ
白髪は三千丈なり雪おんな 佐々木とみ子
季語の来歴は多岐に亘る。基本的な季語は雪月花の美意識を形作った記紀以来
の和歌が生んだもの。平安中期に能因が著した『能因歌枕』には約百五十の季節の
言葉が集められ、これは季寄せのもっとも古いものと言われているが、季語はもとも
と地名など歌枕と同等に扱われていたのである。季語が近世までは季の詞とか季の
題と呼ばれていたのは周知の通りだ。季語はその後、和歌の美意識を根底としなが
ら江戸俳諧興隆期になって格段に増え、今日の興隆を見ることになったわけだ。この
句の「雪女」も初出は江戸初期、『毛吹草』に十一月として掲げられているという。
雪女にはさまざまな言い伝えが各地に残されている。新潟県小千谷地方に残る雪
女の話では、湯に無理矢理入れると溶けて消えてしまったという。遠野物語の雪女は
小正月の夜にたくさんの童子を連れて出て遊ぶ。ともに雪女の幻想性を伝える話。し
かし、雪女伝承の根底にあるのは雪に対する恐怖だろう。道に迷ったり冬山のルー
ルを踏み外したりしたものに取り憑き死の世界へと導く魔物こそが雪女なのである。
雪女を見た者はこの世には存在しない。それは雪女に会うことが即ち死に至ることだ
からだ。小泉八雲の「雪女」では、美しい女性の物語として洗練された世界になってい
るが、禁忌を犯したものを死に至らしめる魔物としての雪女であって、はじめてこの
物語の美しさは凄みを帯びるのだ。雪女とは雪国に暮らす人々が、雪の厄難を避け
るために作り上げた想像上の存在なのである。
虚の存在だから、その句もまた虚に遊ぶものであっていいという考え方もあるだろ
う。しかし、私はそうは思わない。むしろ、この自然を畏怖し自然とともに生きようとす
る態度や思いを込めて作るとき、雪女そのものもリアリティを備える言葉となると考え
る。確かに雪の恐怖はしだいに身近ではなくなってきている。しかし、この思いを下敷
きにして、今に生かすことは可能だ。
掲句の「白髪三千丈」 は李白の五言絶句「秋浦歌」の冒頭に出てくる悲歎の誇張表
現。雪女は何に嘆いているのか。それは無論、木が倒され山が削られ、わが住み処
が滅び行くこと以外にないだろう。そう思いながら、もう一度句に立ち帰ると、まるで
吹雪が白髪となって雪女の周りを二重にも三重に取り囲んでいるさまが眼前に浮か
んでこないだろうか。その映像が伝える凍りつくような恐ろしさこそが、この句のリアリ
ティを支えているのである。
飯粒の凍てし弁当持つて来い 津里永子
風光る死ぬ瞬間は皆同じ 関根 かな
冬銀河の胎内を出ぬ我らかな 俘 夷蘭
などにも瞠目したが、触れるスペースがまたもなくなってしまった。
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