2010/5 bR00 小熊座の好句 高野ムツオ
饑餓の子の指にふれきし初蝶か 佐藤きみこ
この句のリアリティは、饑餓の子の指に触れてきた蝶が、現実として、確かにそこ
に見えるかどうか、その一点にかかっている。明治大正あるいは先の戦争の時代
であれば、こうした情景は、どこにでも見られたから、そのことをもって、ごく自然に
リアリティあふれる作品と判断できたにちがいない。しかし、現在の、少なくとも日本
の日常世界には蝶はともかく、「饑餓の子」はいなくなった。「饑餓」という言葉自体
が死語になってしまったといってもいい。だから現実的ではないのだが、にもかか
わらず、この句は十分なリアリティを伝えている。
それは、なぜなのか。ここには俳句形式や、その言葉の働きに関する大きな秘密
が隠されているような気がする。俳句に相対するとき、私達は、そこに書かれてあ
る言葉がさまざまな現実世界から切り離されたものという前提に無意識のうちに立
つ。だから、この句の場合なら、「饑餓の子」が現実に存在しないという一面的な認
識によって、この句を読むことを中止したりはしない。この、現実にいないはずの
「饑餓の子」がなぜいるのか、それはどこにいるのか、どんな姿をしているか等、そ
こに書かれた十七音を契機としながら、想像世界を彷徨し始める。そして、確かに
ある世界の、ある存在として納得できたとき、その句はリアリティを獲得し、作者と
の共同世界を持つにいたるだろう。
この句の「饑餓の子」は、おそらくは世界各地で飢えに苦しむ子供たちのことだ。
何それなら、遙か彼方の日本へと蝶がやってきたというのは虚構に過ぎないので
はないか。どこに、リアリティがあるのかと反問されるかもしれない。しかし、彼方に
苦しむ饑餓の子と作者をつなぐ存在が「蝶」であることが、この情景が単なる虚構で
はなくて、虚実の間という詩だけが持つ世界にリアリティを生み出すのである。たと
えば、日本古来の「わざうた」の中の蝶。そこでは蝶は予言者であり異界からやって
くる使者であった。蝶が止まることは吉兆でもあった。沖縄では、蝶はシャーマンの
文様といわれている。荘子の「胡蝶の夢」の胡蝶も霊的存在であるのは言をまたな
い。蝶には海を渡る種類もあるから、そうした蝶をイメージとして描くのもいいだろ
うし。荘子のように、夢の中から現れる蝶であってもいい。ここので真昼のそれであ
ろう。触れることとは、おそらくは蝶ができる唯一の恩寵であり福音なのだ。「ちょう
ちょ、ちょうちょ、花菜に止まれ」は、その福音への期待なのである。そう信じながら
「饑餓の子」へ救済を願う作者が、この句から確かに見えてくる。そして、それが、こ
の句が湛えているリアリティの源なのである。
初蝶の影が障子を抜けてくる 古山のぼる
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