2010 VOL.26 NO.301 俳句時評
二つの賞から 渡辺誠一郎
第四十四回蛇笏賞が、真鍋呉夫の『月魄』に決まった。
真鍋氏は大正九年生まれで、現在九十歳を越えた。
父の影響で句を作りはじめ、十代の時、阿川弘之、島尾敏雄、那珂太郎らと同人誌
「こころ」を創刊。戦前に句集『花火』を刊行。平成四年の第二句集、『雪女』で読売文学
賞を受賞している。『月魄』はこれに続く句集。
初夢は死ぬなと泣きしところまで
月の前肢をそろへて雁わたる
蚤しらみ生者に移る月夜かな
真夜の月冱えて伸びゆく死者の髭
句集の「あとがき」で、「漫然とではあるが、この日頃、この巨大で無限定的な宇宙も、
私のやうに孤独で無骨な極微の存在とその運動によつて成立してゐるだけではなく、間
もなく、その巨大な象徴としての「月魄」と一体化する日がくるにちがひない、と思つてゐ
る」と述べ、幻想と現実の裂け目から、我々を永遠の時空の彼方へと誘う濃厚な詩情の
世界を見せてくれる。
今回の句集においても、「雪女」の作品を数多く登場させる。真鍋氏は「雪女」を通して
何を見ようとしているのか。
雪女いま魂触れ合うてゐるといふ
雪女あはれみほとは火のごとし
永へてわが為に哭け雪女
真鍋氏は、「対談「雪女」を語る」(「俳句界」09・12)のなかで、少年時代に読んだラフ
カディオ・ハーンの「雪女」が意識の潜在にあることを語っているが、氏にとっての雪女
は、民俗学などでとらえている単なる「幻想」としての存在ではない。「「雪女」は自然へ
の畏敬と畏怖を象徴する存在であると同時に、やっと最近になって現れはじめた現代の
「造花」の母胎としての成熟した女性でもあるんです。」と述べるように、虚構を越えた自
然であり、宇宙の象徴としての存在である。と同時に、現実の女性そのもの、生命、そし
てエロスの象徴でもあるといえよう。
生は死と背中合わせに成立する。それゆえ「雪女」の世界は、おのれ自身の命のあり
様や自然と向き合うための「装置」(真鍋)でもあるのだ。その装置に変換された世界は
生への賛歌の世界、あるいは死への恐怖の世界が待っているかもしれない。さらには、
自然への畏敬の念を抱かせる世界でもあれば、畏怖の念を抱かせる世界が待っている
こともあるのだ。雪女は真鍋氏にとって、現実と幻想、あるいは生と死を行き来できる、
象徴的な働きをなすものだ。
『月魄』の世界でもう一つ見逃すことができないのは、戦中世代として、戦死者に向け
た鎮魂の作品群だ。
死者あまた卯波より現れ上陸す
骨箱に詰めこまれゐし怒涛かな
月を背に遺骨なき兄黙し佇つ
我はなほ屍衛兵望の夜も
多くの戦死者たちは真鍋氏の詩魂の力によって、現実の世に鮮やかに蘇る。戦死者
たちは、現実の兵士として「上陸し」、「黙し佇」っているのだ。「望の夜」などの季節の言
葉は、記憶を現実の姿に開け放つ、まさに「装置」の働きをする。骨箱の句は、箱に一
片の骨もなく、季節を忘れた怒涛だけが詰め込まれたままだ。ここでも現実と幻想を行
き来する真鍋氏の確かな俳句世界が存在する。
このように『月魄』の世界は、見えるべき現実を、見えないものを通してわれわれに差
し出してくれるものといえる。「雪女」の姿を見せることで、あるいは「戦死者」を登場させ
ることで、本来は虚と不可分としてある見えるべき現実の姿を明らかにしてくれる。われ
われの感覚を本来あるべきものに解き放してくれる世界なのだ。ここでは現実と幻想の
時空は重なりあって、一つの世界が創出されている。
真鍋氏は、蛇笏賞受賞の言葉のなかで、「さびしさをあるじなるべし」との芭蕉の言葉
に思いを寄せていることに触れている。
この世より突きでし釘よ去年今年
確かにこの世から突き出た釘のさびしさは、真鍋氏自身の表現者としての姿と重なり
合う。この句の世界は、『月魄』の世界から静かに届く、我々へのメッセージそのもので
ある。
蛇笏賞が四十四回なら、新たに創設された賞に田中裕明賞がある。俳句の出版を数
多く手掛けているふらんす堂が「俳句の未来をになう若手俳人を育てる」目的で創設し
た。田中裕明は、大阪生まれで、波多野爽波に師事し、四十五歳で急逝した。〈大学も
葵祭のきのふけふ〉、〈たはぶれに美僧をつれて雪解野は〉など、懐の深い端正な作品
世界として印象深い。この賞は四十五歳までの気鋭の俳人の句集を対象にし、俳壇に
おける賞の選考では若い世代に属する石田響子、小川軽舟、岸本尚毅、四ッ谷龍が選
考委員。
第一回の受賞者は、八冊の候補句集の中から、髙柳克弘の句集の『未踏』に贈られ
た。選考委員の一人岸本は、選考評に次の言葉を寄せた。
「狙い澄ましたような青春性の演出があり、また、その文体は、総じて安定感がある。
そのため、読者によっては「老成」との印象を持つかもしれない。しかし、俳句の型を本
当に自分のものにし、駆使することは容易いことではない。俳句という器を使いこなそう
とする「苦労の痕跡」が見える句集が多い中で、『未踏』における自在さの程度は図抜
けており、「裕明」の賞に相応しい。」
「老成」といえば、かつて田中裕明の俳句にふれて、師である波多野爽波が同じように
若いのにもかかわらず「老成」の句が散見されることをさして、「将来作家として大成す
るに必須の要件」とエールを送っていたのを思い出す。
ことごとく未踏なりけり冬の星 克弘
この作品が象徴するように、作者自身のこれからを重ね合わせてしまうが、先にあげ
た真鍋呉夫の年齢になった時の髙柳の姿までは現在のわれわれの想像は及ばない。
ただ俳句に未来があることを信じるだけだ。
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