2010/7 bR02 小熊座の好句 高野ムツオ
標本の翅初夏の空映し 松岡 百恵
前回に続き東京土の会での作品を取り上げることになった。これも題詠。ただし、
題は会場のファーブル昆虫館で目に触れたものだったから、これは属目という呼び
方が正しい。もっとも、属目という作り方は、万葉の頃からあったものだ。俳句固有の
ように感じられるのは、近代になって写生という方法が、子規、虚子によって俳句の
王道のように唱えられたことによる。確かに、現実諸相と言葉で直に相対することは
写生という言葉にこだわるかどうかは別にして俳句表現の本来的なあり方ではある。
前号述べた題詠がつまるところ言葉そのものから発想する方法であるなら、属目は
現象、つまり存在するものの現場そのものから発想する方法といっていい。どちらが
正しくて、どちらが間違いという話ではない。
また前置きが長くなりそうだ。掲句は句会では
青空を映す立夏の標本は 松岡 百恵
として提出された。その折、私はこの句に触れながら、いい句だが、このままでは、
今日、ファーブル昆虫館に来た人以外には、この句のイメージは伝わらない。つまり
標本が虫以外でも鑑賞できる句だ、そこが欠点だといったことを述べた。得意になっ
てしゃべったが、帰り道で後悔し始めていた。その日の属目であることにこだわって
いたのは、作者でなくて、実は鑑賞者の私の方であったのではないかと。この標本は
何も昆虫(その時は蝶の翅のイメージだった)であることにこだわる必要はなかったと
思い始めていたのだ。蛇や蛙、あるいは植物の標本、極端にいえば人体標本であっ
ても、標本にされた生き物の悲しみは十分に伝わるのではないか。例えば青空を映
していたのが蛇の鱗だったとすれば、それはまた蛇のいいようのない悲しみが伝わ
るだろう。どうも少し余計なことをしゃべりすぎたかと、自分のうかつさを戒めていた。
そんな折りに貰った同人作品の推敲句が始めに掲げた句だ。愚かな私は、この句を
見て、やはり、青空を映すのは翅あるものでなければやはりいけないと再び納得させ
られることになった。蛇の標本と観賞しても、魅力的な句ではある。しかし、やはり、
飛べるべき翅のある蝶であってこそ、標本になったものの悲しみはより深く伝わる。
そう納得した次第だ。なお、蛇足ながら付け加えておくが、この蝶の悲しみをもっとも
よく知っているのは、鑑賞者ではない。標本を作った採集者である。ここにも愛するこ
との不条理があるなどといえば、蛇足と言うほかはないが。
自由とはさざ波のようソーダ水 中鉢 陽子
さざ波のように自由自在にソーダ水が揺れているという句ではない。自由とは、さざ
波のように瞬間に現れ瞬間に消えてしまうということだ。その悲しみがソーダ水の揺
れにこもっているのである。
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