2010 VOL.26 NO.304 俳句時評
子規と俳句分類 矢本 大雪
俳句の最大の特徴は十七音という短さにある。季語も切れも、その五七五という最短詩
型であろうとする俳句の約束に比較すれば、二次的、三次的な規定でしかない。五七五
あるいは十七音に収斂しようとするこの詩型は、その短さゆえに暗誦性にすぐれ、記憶し
やすい長所(それは短所であるのかも知れぬが)を持つ。作品が十七音前後という長さの
ため、一句ずつの取り扱いは至極簡便と思われている。が、これほど世の中に普及し、さ
まざまな俳句作品が溢れかえった現在の状況下では、各作品が織りなす世界に、統一感
も、共通性も見出せないといった混乱が起こる。句をなんらかの共通項で束ね、分類して
取り扱いやすくする。あるいは、作品どうしの比較対照を能率的にするため、試行錯誤し
ながらできるだけ似通った作品を一つの箱に収めようとする衝動が(おそらく必然として)
起こる。それは俳諧の発生時から、ごく自然な要求としてあったであろう。
俳句の本質ともっとも密接な季節感による分類は、句作上の(季)題の重要さと重なり、
季語という一見万能な共通項を俳句にもたらし、歳時記が出現する。この歳時記が現在
の俳句界で占める役割を考えるとき、いまや不可欠ともいえるほど大きなものになってい
る。それゆえ、創作時の必須アイテムであるだけならまだしも、悲しいことに暗合や類似
作品を生み出す道具としても使用されかねない。むろん歳時記が悪いのではない。使用
する側が、その便利さについつい甘えるのが原因だろう。
俳句作品を分類・整理することの有効さを、一番認識していたのが正岡子規かもしれな
い。彼は、甲号、乙号、丙号、丁号の四つの方法で俳句分類を考えていた。甲号とは季
題による分類で歳時記に最も近い。乙号は季題以外の言葉による分類で、いわばキーワ
ード辞典。あるいは俳句用語辞典の先駆けである。「建築飲食」という大見出し(分類)の
なかに家居・柱・弁当などのたくさんの小項目を設けて作品を分類した。他に大分類とし
て、「器物」(項として椅子・口紅・灯台など)、「武器、楽器、玩具、外国品、舟車」(項とし
て刃物・眼鏡・舟・など)、「人事」(項として地震・歌舞伎・病など)がある。さらに乙号補遺
として、「一句三季物(題)」の項に作品としては「香もなくば梅も桜も朧月」などの例句を多
々配し、他に「謡曲」や「人名」(源義経・熊谷直実などの登場する句)、「書名」「送別」など
の項を立て、事細かに分類している。子規の手法は、室町から幕末に至る約十二万句も
の蒐集に始まり、その一句ずつに対応する項目を立てる必要性が生じたものと類推され
る。それゆえ、項目自体の分類は乙号に関しては、煩雑で整理されているとは言いがた
いが、彼の生涯の短さに比し、その情熱の量と仕事の量には驚嘆の一言しかない。
さらに面白いのが丙号、丁号である。丙号は表現法(技巧を含む)による分類である。
表記、音数、比喩、擬人、切れ、止め、係り結び、類句などで分類し、子規自身は「形式
的ならびに実質的(分類)」と記している。丁号は「句調類集」で、俳句の上五に注目し、そ
の切れ方を、「てにをは」や命令、けり、し切れ、名詞止などに分類し、上五の切れ方止め
方が一句の句調を決定するのではないかという仮定に基づいた分類になっている。私事
で申し訳無いが、子規にははるかに及ばないながらも似たような分類癖を持つ一人として
丙号・丁号の作業にいそしんでいた子規は、おそらく心躍らせ、自らの視点の良さに内心
で快哉を叫びながら楽しい時間を過ごしていた、と勝手に自分とダブらせて見ている。た
とえば私も少なからぬ俳句作品を収集し、用語別に分類もしてみた。そのなかの「青」の
項目の作品を挙げてみる。
きりぎりす鳴かねば青さまさりける 日野 草城
しんしんと青い鎌ふるなまけ者 穴井 太
燕巣にあふれべたべた青の海 古館 曹人
その一部であるが、「青」の持つ象徴的な意味、たとえば永遠性、真実、純粋さ、青春性
といった言葉をこれらの句の解明に用いることも出来るのだ。それが妥当かどうかは問
題ではなく、句の読解に独自色をだそうとすればそれも可能だということが面白く思われ
た。さらにいえば、言葉は作者のメッセージ性に注目しすぎると、限りなく比喩化(象徴化)
してゆくきらいがあることも確認できた。
子規の丙号・丁号の分類は、実は俳句作品の分析にほかならない。かつて子供時代に
時計や様々な器械を分解・解体した痛快さがそこにはある。むろん俳句は機械的な構造
をもつものではないが、科学的な眼を備えた分析にさらされれば、何か一句の本質を掴
める。実はそこにこそ大きな誤解と、俳句そのものの岐路がある、と私は思う。分析は確
かに有効な方法で、特に一句の読解には不可欠な基本的手法ではあるのだが、解析的
手法がぴたりときまればきまるほど、逆にその一句は薄っぺらで色あせた物になりかねな
い。まるで分解はしたものの組み立てられなかった時計のように、あるいは組み立てた後
に、部品がいくつか手に余っているように。分析も分類もそれ自体が俳句を創り、読むこ
との最終目的ではないのだ。あまたの俳句作品のなかから後世に残すべき作品を選ぶ
作業ならば、分析は有効に働くだろう。そしてその結果は、歳時記に追加されてゆくので
はなく、より大きなテーマのもとにアンソロジーとしてまとめられる方がより良いのではなか
ろうか。もし、俳句界のすべての作品を網羅し、分類したい(正岡子規が生き続けていれ
ば、そう願ったのかもしれない)のなら、構文で分類すれば可能だろう。しかし、分類し終
えたことが俳句にもたらすものは、パターン俳句の索莫とした光景になるのではないか。
個人句集が基本的な単位ではあるのだが、後世に残すべき資料としての俳句のアンソ
ロジーは、一句ずつを読むことが楽しく、また感動できるものであってほしい。分析の後、
俳句の世界をどのように組み立てるかが問われている。
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