2010/9 bR04 小熊座の好句 高野ムツオ
俳句は十七音の短い詩形である。だから、表現できる内容には限界がある。俳句
には俳句に適した表現や世界があり、それを自覚して句作すべきだという考え方が
ある。もっともな指摘である。しかし、俳句形式にふさわしい内実のみ俳句に求める
ことは、一方では俳句形式の可能性を自ら閉ざしてしまうことに繋がらないだろうか。
俳句を少なくとも創造の一形式ととらえるなら、俳句形式の限界を超えようとして表現
を追求する姿勢は、俳人としての誰もが持つべきものではないだろうか。
時事は俳句に向かないと長い間言われ続けてきた。確かに中世以来の隠遁者文
学の流れにつらなる俳句には、その要素は十分ある。しかし、時事と全く無関係の場
に文学が成立したことも、また、なかった。文学論を展開する気はないので、早々に
結論へと短絡するけれども、西行にしても宗祇にしても時代と密接につながる次元で
言葉と向き合ってきたのではないか。時代や時事を抜きにして、その時代や時事が
育んできた言葉が生きて働くことはあり得ない。言葉はもとより社会的存在なのであ
る。
だいぶ、力が入ってしまった。時代や時事は、俳句表現に不可欠の要素であり、俳
句形式の可能性を、そこにも求めるべきだと、ひとまず指摘しておくことにする。ただ
し、なかなか困難な道であることはいうまでもないが。
こんなことが頭をよぎったのも、今号の小熊座には、時事性濃い作品に秀句が多
かったからだ。
七夕や子なき声なき家ばかり 阿部宗一郎
七夕は、星合伝説が元になっているが、織女星が機織りの神であることから、子女
の手習いの上達を願う行事となったのは周知の通り。七夕は、もとより子供たちの行
事でもあった。しかし、今はどの家からも子の声は消えた。この句の怖さは「声なき」
と重ねたところにある。この「声」は子供の声ばかりではない。家族の声すらないとい
うことだ。つまり「家」そのものが、すでに存在していないのである。たぶん、年老いた
誰彼は住んでいるのだろうが、もう、そこは廃墟に等しいとさえこの句は無言で訴え
ているのではないか。まさに、現代農村の七夕がここには表現されているといえる。
端末に人は繋がれ茄子の花 増田 陽一
も現代社会が句材。「端末」は端末機の省略としてだけではなく、独立した一語とし
て市民権を得つつある。携帯電話だけではない。パソコンも銀行の自動支払機も端
末。端末がなければ、世界が存在しないかのような現代だからこそ茄子の小さな花
が名状しがたく美しいのである。
新宿のどこから見ても月は月 高橋 彩子
義眼義歯それに補聴器さわやかに 遠藤のぶ子
も、まさに現代の景。ことに後者の精神の若さに感銘深いものがあった。
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